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「私たち…駅伝、出られるの?」からの出発…“長距離部員は3人だけ”地方の公立校がなぜ全国高校駅伝の女王に? 18年前「長野東の奇跡」を振り返る
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別府響Hibiki Beppu
photograph byJIJI PRESS
posted2025/12/21 06:01
昨年の全国高校駅伝で2度目の全国制覇を果たした長野東高校。いまでは駅伝女王となった「普通の公立校」の黎明期とは?
玉城はこれ幸いと、つながりのあった地元のランニングクラブのスタッフや保護者と協力し、その残骸を処理した。と同時に、その跡地を利用してもともとあったランニングコースを広げることに成功した。結果的に、ここで後の同校の練習ベースとなる1周約520mの“擬似”クロカンコースが完成することになった。
「インターバルやペース走みたいなメニューもあるにはありましたけど、本当にほぼそこでのジョグだけだったと思います。ただ、アップダウンがある不整地のコースなので足腰は自然と鍛えられました」(小田切)
メニューの強度は自分たちで…高かった自由度
ジョグと一言で言っても、そこには様々な力加減がある。だが、どれほど強度を上げるのかの尺度は各自に任されていたという。
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西澤姉妹の妹・美春も振り返る。
「細かくペースの指示があるわけじゃなくて。確か入学してすぐに『1km4分半くらいのペースでジョグができるように』というのだけは言われた記憶があります。最初は全然そんなレベルじゃなかったので、まずはそれを目指してやっていた気がします」
傍から見れば高校に入ったばかりの1年生に与えるには、自由度の高過ぎるメニューのようにも思える。だが、そもそも実績ゼロの公立校に徒手空拳で飛び込んできた3人である。元々目的意識が高かったこともあり、それでうまく回ってしまった。玉城が苦笑する。
「結果的にいま振り返ると、10年以上の指導の中で最初の3人が一番、手がかからなかったと思います。練習メニューを与えれば勝手に自分たちでかみ砕いて、強度も自分たちでコントロールしていましたから」
もちろん強度はともかくとして、練習「量」は豊富だった。当時はいわゆる完オフの日はなく、土日も含め練習は毎日あった。革新的なメニューなどなくとも、その日々の積み重ねは確実に選手たちの土台を作り上げていった。
また、そこには玉城なりのこだわりと反省もあった。
「前任校では若さもあって『自分についてこい』みたいな指導をしたこともあったんですけど、結局それだと良いときは良いんですが、悪くなったときに自分たちで立て直せないんですよね。基本は与えるけれど、自分たちで自主的に考えて練習を組み立てることが重要。県教委に出向していたときに他の競技のトップクラスの選手たちを見たことも影響して、そういう考えに変わってきていたのもありました」
そして、そんな練習が2カ月ほど続くと、小田切がいきなり1年目から結果を出す。6月頃から始まるトラックレースで、ルーキーながら3000mでインターハイまで出場したのだ。


