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「初優勝、自宅で涙が止まらなかったよ」フロンターレと中村憲剛、小林悠への愛は今も…ジュニーニョ激白「じつはバルサが僕を狙っていた」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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posted2025/12/12 11:01

「初優勝、自宅で涙が止まらなかったよ」フロンターレと中村憲剛、小林悠への愛は今も…ジュニーニョ激白「じつはバルサが僕を狙っていた」<Number Web> photograph by AFLO SPORT

川崎フロンターレ黄金期の礎を築いたジュニーニョと中村憲剛。ブラジルに帰ったジュニーニョに当時の秘話と今を聞いた

「当時、彼はまだ若かったが、オフザボールの動きの質が高く、止める、蹴るの技術も優れていた。フロンターレの将来を担うストライカー、僕の後継者となれる逸材だと思ったので、そう言ったんだ」

――「チームが苦しい時にゴールを決める存在になれ」とも励ましたそうですね。

「彼は地道な努力を積み重ねて、偉大な選手になった。僕としても、とても嬉しいよ」

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――あなたはフロンターレ時代にJリーグで3回準優勝しましたが、タイトルには手が届かず、2011年に退団します。しかし、中村憲剛、小林らはその後もフロンターレでプレーを続け、2017年、ついに悲願の初優勝。この朗報をどのように受け止めましたか?

「ブラジルでは中継を見ることはできなかったが、フロンターレの動向はいつも気にしており、インターネットなどで常に状況を確認していた。終盤に鹿島アントラーズと激しいデッドヒートを繰り広げ、最終戦でフロンターレが勝って鹿島が引き分け以下なら悲願の初優勝、という状況はわかっており、自宅でハラハラしながら双方の試合の推移を見守っていた。フロンターレが優勝したとわかった瞬間は、涙が止まらなかった」

こんなこと、フロンターレでしか起こらない

――その後、フロンターレはJリーグ連覇やルヴァンカップ制覇、2020年代前半にはほぼ毎年、国内三大タイトルを獲得する日本有数の強豪クラブとなった。

「2003年に僕が入団した頃は、観客がまばらだった。でも、その後、強くなるにつれて観客が増え、今ではいつも満員。あらゆる点で、隔世の感がある。僕は、自分が今の川崎の土台を築いたことを心から誇りに思っている」

――2011年11月26日、フロンターレ時代最後のホームゲームとなった横浜F・マリノス戦で2得点。試合後、ファンへの挨拶で、「優勝はできなかったけれど、皆さんからの愛情という、ある意味ではタイトルよりも大事な物を手にした」と涙ながらに語りました。

「14年たった今も、全く同じことを感じている。フロンターレのファンは本当に愛情細やかで、2007年にJ1得点王になったときには手作りトロフィーを、2008年に日本国籍取得と日本代表入りを断念した際には幻となった背番号10の日本代表ユニフォームを贈ってくれ、僕が引退すると、有志で資金を募って銅像まで造ってくれた。こんなことは、日本でしか、いやフロンターレでしか起こらない」

じつはバルサが僕の獲得を望んでいたそうなんだ

 ジュニーニョは、感激の面持ちで語ってくれた。

 そんな彼がフロンターレへ加わったのは25歳の時で、決して若くはなかった。それまで、彼はブラジルでいかなるキャリアを積んでいたのだろうか。それについて聞くと、驚くべき事実を明かしてくれた。

「じつは、バルサが僕の獲得を望んでいたそうなんだ」〈つづきは下の【関連記事】へ〉

#2に続く
「神のお告げだ」“バルサ18億円移籍話”が破談も…FWジュニーニョとフロンターレの幸せな関係「べティスからの誘い…心は全く動かなかった」
この連載の一覧を見る(#1〜3)

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