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「初優勝、自宅で涙が止まらなかったよ」フロンターレと中村憲剛、小林悠への愛は今も…ジュニーニョ激白「じつはバルサが僕を狙っていた」
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byAFLO SPORT
posted2025/12/12 11:01
川崎フロンターレ黄金期の礎を築いたジュニーニョと中村憲剛。ブラジルに帰ったジュニーニョに当時の秘話と今を聞いた
「相手に奪われてカウンターを食らうのが怖かったんだと思うんだけど、なかなかパスを出さなかった。2004年の京都パープルサンガ戦(注:5月2日に行なわれたJ2第9節)でも、僕がスぺースへ走り込んだのにパスを出さなかったから、彼に近寄って文句を言ったんだ。すると、その次の機会にパスを出してくれ、僕がゴールを決めて、チームが勝った。以後、彼は怖がらずにパスを出すようになり、それがチームにとって大きな武器となった。同時に、ケンゴもMFとして一皮剥けたんだ」
――なるほど。それで中村憲剛はあなたに感謝しているのですね。でも、2003年はまだそうではなかった?
「当時は攻撃的MFの控えで、あまり試合に出ていなかった。レギュラーになったのは、2004年にボランチへコンバートされてからだからね。実は、このプレーには僕がパルメイラス時代(注:フロンターレ移籍直前の2000~02年まで在籍)に経験したことが土台になっている」
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――どういうことでしょうか?
「当時、パルメイラスにフランシスコ・アルセというパラグアイ代表の右サイドバック(※正確な右足のピンポイントパス、クロスを入れる名手。1998年と2002年のワールドカップに出場し、2003年にガンバ大阪でプレー)がいた。2000年のある日、アルセが練習中に僕を呼んでこう言ったんだ。『お前はスピードがあるから、俺がボールを持ったら、いや持ちそうになったらすぐにスペースへ走れ。そうしたら、俺がお前が走り込む先へパスを出すから』ってね」
――なるほど。
「それで、マーカーを出し抜いて、なおかつオフサイドにならないように気を付けながら、スペースへ走り込む動きを繰り返し練習した。そして、試合でその動きをしたら、彼から完璧なパスが来て、点が取れた。この経験があったから、今度は立場を逆にして、フロンターレでケンゴに伝えたんだ」
――フロンターレで、中村憲剛以外の選手にも同じことを要求したのでしょうか?
「いや、ケンゴだけだったな。高度な技術、優れた状況判断、そして勇気が必要で、難易度の高いプレーだからね」
フロンターレの初優勝…涙が止まらなかったよ
――2010年にフロンターレに入団した小林悠は「ジュニーニョは『試合でも練習でも、いつも俺を見ていろ』と言って指導してくれた」とあなたに感謝しています。

