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「髪の長い美人を紹介してやる」引退から5年、“野人”中西学58歳が語るプロレス転向を支えた“恩人の名前”…後輩・ウルフアロンにエールも
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byKeiji Ishikawa
posted2025/10/17 11:01
インタビューに答える現在の中西学さん
中西 ある時、親に「高校に行くなら農業高校に行けよ」って言われたんですよ。その時、「あっ、俺でも高校行けるんや」と思って、「どうせ行くなら普通の高校行かせてくれよ」って言って、それまで通信簿はほとんど1とか2ばっかりだったのが、なんとかがんばって3ぐらいまで取れるようになって、地元の私立高校普通科に入ることができたんです。で、その高校にはレスリング部があったんですよ。もともとプロレスは好きだったんで、アマレスにも興味が出てきて。「がんばって、オリンピックに出るんや!」って、これまでやったことがないクセに何の根拠もないことを言い出したのが始まりでしたね。
――これまで何事も続かなかったのが、レスリングだけは続いたんですか?
中西 当時は「連帯責任」っていうのがあったんですよ。ひとり辞めたらみんなに迷惑をかけるっていう。だから「俺だけ辞められへん」と思ってましたね。また、平気で先輩や先生から殴られる時代でしたけど、身体は丈夫だったんで殴られても蹴られても痛みこそあれダメージはそんなになかったんで、なんとか続けて。レスリングのセンスはホンマになかったと思うんですけど、力がついて身体も大きくなって、グラウンド技でひとつ、スタンド技でひとつぐらいの技を身につけて、「大学でも続けたら、何かモノになるかもしれない」というところまで行けたんです。自分からしたら、高校にも行けないと思っていたのに、それが「推薦の話が来てるから、大学に行ってレスリング続けないか?」って言われた時は、「えーっ! 俺が大学に行くんか!? 信じられへんな」って思いましたけどね。
「髪の長い美人を紹介してやる」と言われ…
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――そして専修大学時代に頭角を現し、その後、新日本プロレスのアマチュアレスリングクラブ「闘魂クラブ」に入ったのは、どんな経緯があったんですか?
中西 大学を出たあと和歌山県庁でスポーツ指導員をしながらオリンピックを目指してたんですけど、全日本選手権に優勝して日本代表になっただけじゃオリンピックには行けなかったんですよ。アジア選手権で3位に入らなきゃいけなかったんですけど、そのためにはトップ選手の中で揉まれなきゃいけない。でも、国内には重量級の練習相手も少ないし、県庁勤めじゃ遠征にも出られない。「まずいな……このままだとオリンピックに行けへん」って思ってた時、大学の先輩を通じて馳(浩=現・石川県知事)さんを紹介してもらったんですよ。
――馳さんも専修大学レスリング部OBですよね。
中西 そうです。それで自分のことも知っててスカウトに来てくれて。でも、最初は馳さんから冗談っぽく「髪の長い美人を紹介してやるから、一緒にメシを食いに行こう」って言われたんですよ。
――さすが「闘う愛の伝道師」と呼ばれた男ですね(笑)。

