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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「悪いこと考えるよな(笑)」“全日本吸収”未遂はまさかの結末に…蝶野正洋が今明かす「新日本プロレス選手大量離脱事件」とは何だったのか?
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/10/11 17:01
“黒のカリスマ”蝶野正洋が今明かす、選手大量離脱事件のウラ側とは?
2000年4月7日の東京ドーム。テレビ朝日の特番で「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!スペシャル」と銘打たれた小川直也戦に敗れた橋本真也は、試合後に引退を表明した。
しかし、橋本復帰を嘆願して折り鶴を折った少年ファンの兄弟、通称「折り鶴兄弟」の運動がテレビ番組で取り上げられたことがきっかけで、全国から109万7440羽もの折り鶴が集まったことが後押しとなり橋本は復帰を決意。同年10月9日の東京ドームの藤波辰爾戦で復帰をはたした橋本は、試合後の共同インタビューで「新日本プロレスの誇りを持って、独立したいと思います」と“独立宣言”をおこなっている。
橋本には形だけでも独立しなければいけない事情があった。99年1月4日東京ドームで小川直也に敗れて以来、橋本は長期欠場を繰り返し、年俸制でありながら地方興行に出場せず、年に数試合しか行わなかったことで新日本の選手間で不満が充満。復帰を決意したものの新日本本隊に橋本の居場所はすでになかったのだ。
“全日本吸収”の目論見は、まさかの展開に…
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それを見かねた当時の社長である藤波辰爾が、橋本に“団体内独立”をうながし、それが衛星団体「新日本プロレスZERO」設立につながったが、団体内独立でありながらその気になりやすい橋本は一気に夢が広がってしまい、新日本の意向に関係なく積極的に行動を開始。
ちょうど新日本が、馬場元子夫人が代表を務める全日本プロレスとの交流をスタートしたばかりのタイミングで、全日本と袂を分かった三沢光晴のプロレスリング・ノアとの交流話を進めたことが問題視され、2000年11月に新日本は橋本真也を解雇。これによって橋本は翌2001年3月に新団体ZERO-ONEを旗揚げ。新日本から完全独立を果たしたのである。
さらにこの1年後、全日本にセミレギュラー参戦し“外様のエース”となっていた武藤敬司が新日本を退団。小島聡、ケンドー・カシン、さらに新日本の中枢社員数名を引き連れて全日本に移籍した。新日本による“全日本吸収”という目論見は、橋本の解雇と武藤の移籍というとんでもない結末を迎えてしまったのだ。

