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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「悪いこと考えるよな(笑)」“全日本吸収”未遂はまさかの結末に…蝶野正洋が今明かす「新日本プロレス選手大量離脱事件」とは何だったのか?
posted2025/10/11 17:01
“黒のカリスマ”蝶野正洋が今明かす、選手大量離脱事件のウラ側とは?
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
50代半ばから脊柱管狭窄症に苦しめられ、現在、引退試合を行うべくリハビリを重ねている蝶野正洋。引退を意識し、あらためて現役生活を振り返る中で、「若い頃には気づけなかったことが、いまになって理解できるようになったことが多数あった」という思いから、9月に新刊『蝶野正洋 プロレス名勝負とあの事件の裏の裏』(ワニブックス)を出版した。
インタビュー後編は、20世紀の終わりにプロレス界で起きた最大の事件のひとつ、2000年6月の全日本プロレス選手大量離脱事件を振り返る。この事件は全日本だけにとどまらず、蝶野を含めた闘魂三銃士ら、新日本プロレスのレスラーたちの運命も変え、プロレス界再編のきっかけともなった。《全2回の後編/前編も公開中》
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「悪いことを考えるよな(笑)」
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99年1月31日に全日本プロレスの総帥・ジャイアント馬場が大腸がんの肝転移による肝不全により逝去。それを受けて同年5月に三沢光晴が社長に就任したが、新体制スタートから1年も経たないうちに、プロレスに対する方針の違いから三沢と、筆頭株主で事実上のオーナーである馬場元子夫人の対立が表面化してしまう。
これが三沢を筆頭とする選手・練習生25名、スタッフと合わせて総勢31名の大量離脱に発展し、三沢派は新団体プロレスリング・ノアを設立することとなる。
全日本に残留したのは、川田利明と渕正信のわずか2人(ハワイ在住の太陽ケアを含めても3人)。団体存亡の危機に直面した全日本は、新日本との対抗戦(事実上の協力体制)に活路を見出そうとする。その対抗戦第一弾の舞台となったのが、2000年9月2日の全日本プロレス日本武道館大会。ここに“尖兵隊”として乗り込み、全日本の渕正信とシングルで対戦したのが蝶野正洋だった。
「俺は当時、全日本系の選手と個人的な付き合いはなかったから、何が起こっているのか、詳しいことはわかってなかったんだけど、選手がみんないなくなって、全日本が存続の危機に直面していたんだよね。そこで新日本が対抗戦をやることで救済の手を差し伸べたんだけど、その裏では、長年最大のライバルだった全日本プロレスというブランドを吸収してしまおう、と。それを永島のオヤジ(永島勝司 新日本プロレス取締役・当時)が考えてのことだったんだよ。
だから全日本を本当に救おうとしたわけじゃなく、全日本を生かしたまま新日本に吸収してしまおうとしていた。悪いことを考えるよな(笑)。その尖兵隊として行ったのが俺であり、その後にセミレギュラーとして全日本に出るようになったのが武藤(敬司)さん。そんな最中に橋本(真也)選手が新日本を解雇されて、新団体ZERO-ONEを立ち上げたんだけど、全日本の問題がそこに間接的に関わっていたっていうことを、俺は最近知ったんだよ」

