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「多かったのは婚姻届です」女子バレーの顔だったスター選手が経験した“大フィーバー”ウラ側…「鉛の靴を履いて登下校」した佐伯美香の強豪校時代 

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吉田亜衣

吉田亜衣Ai Yoshida

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posted2025/09/06 11:01

「多かったのは婚姻届です」女子バレーの顔だったスター選手が経験した“大フィーバー”ウラ側…「鉛の靴を履いて登下校」した佐伯美香の強豪校時代<Number Web> photograph by R)NumberWeb

ユニチカではVリーグ優勝に貢献し、最高殊勲選手などを獲得した佐伯美香さん

 周囲がそう表現するほどの強烈なスパイクを打っていた佐伯は、京都でNo.1を誇っていた成安女子高(現・京都産業大学附属高)から声をかけられ、生まれ育った松山を出た。

「四国大会に行くだけでも自分よりすごいスパイクを打つ人がいるな、世の中にはすごい選手がたくさんいるんや、と。だから自分が県外に出てどれだけ通用するか試してみたいって思ったんです」

 成安女子高は鉛のシューズ以上に厳しかったが、当時の顧問・南元昭治氏はバレーボール以外にも読書や映画などの教養や知識、エアロビなどの運動も取り入れながら指導。それはバレー漬けだった佐伯にとって新鮮に感じた。

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「監督が言ったことは絶対、という厳しさはもちろんありました。例えば、学校で合宿しているときに夜は近くの銭湯に行くんですけど、帰ってきたら先生が『風呂に何分かかっとんじゃ。もう一回行って30分で帰ってこい』と。徒歩で10分くらいかかるので、ダッシュで行ってまたお金を払って服を脱いで、真面目にしっかりお風呂に入ってダッシュで帰る。先生がすぐ寝ろというので汗だくで布団に入るという(笑)。先生の言う通りに行動するのが当たり前でしたから。そういった少し理不尽なこともあったんですけど、今となっては笑い話。それは結果を残せたから言えるのかもしれませんが、南元先生は学校長も務めておられて、コートの外でもいろいろ学ばせてもらったのは大きかったですね」

ユニチカでの日々「あれ以上、苦しいことはない」

 成安女子高時代での最高成績は京都国体(現・国スポ)で準優勝。佐伯は卒業後、当時の国内最高峰リーグ「日本リーグ(のちのVリーグ、現SVリーグ)」に所属していたユニチカに入社した。前身のニチボー貝塚時代には、大松博文、小島孝治という名将が率いてきた名門中の名門チームである。だが、1980年以来、日本一から遠ざかっていた。

「当時はダイエーやイトーヨーカドーというチームがあって大型化が進んでいる中、ユニチカは小さいチームだけど、拾えば勝てるがモットー。そりゃ、練習しましたよ。1日8時間。ご飯と睡眠以外の時間は練習。休みは半日練習の日が月1回あるかないか。練習についていくために、給料の半分は高額な栄養補助食品に費やしていましたから(笑)。休みもないから、お金を使うこともなかったので」

 佐伯は寝ても覚めてもその生活を7年間過ごしてきた。その間、休みの少なさや厳しさを一度も疑問に思ったことはなかったという。なぜならば、答えは簡単。その生活を乗り越えなければ、勝てないと思っていたからだ。

「あれ以上、苦しいことはないし、少々のことなら耐えられたというのはあります。でも、また味わえるかといったら、さすがに嫌ですけど(笑)。当時は過酷な練習の先にVリーグ優勝があると思っていました」

【次ページ】 日本代表で人気急上昇「ファンレターのなかに婚姻届」

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