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「ビーチバレーは“妊娠する競技”と言われた」全日本のエースだった佐伯美香が“まさかの転向”で大騒動に…世間の偏見を変えた“あるきっかけ”
posted2025/09/06 11:02
インドアからビーチバレーに転向し、計3度のオリンピックに出場した佐伯美香さん
text by

吉田亜衣Ai Yoshida
photograph by
L)NumberWeb、R)AFLO
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「ビーチバレーにいったら妊娠する、と…」
日本代表メンバー落選から不死鳥のようによみがえり、女子バレーボール界に欠かせない存在となった佐伯は、自身初めてのオリンピックとなった1996年アトランタ五輪に出場。9位タイに終わった五輪後、佐伯がビーチバレーへ転向することが報道された。風向きは一気に逆風へと変わった。
「散々でしたよ、もう。当時はビーチバレーにいったら妊娠する、と言われていた時代でしたから。それくらい、チャラチャラしているというイメージがあったし、スイカのボールでやるスポーツですか?と。それほどビーチバレーが世の中に知られていなかったし、ファンの方も『なんでビーチバレーなんかに転向するんですか?』と。所属チームからも大反対されました」
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これまで熱視線を注いできた世間から冷たい視線を向けられても佐伯は、アルバイトをしてでもビーチバレーをしようと決めていた。すでにオフシーズンにビーチバレージャパンレディース全日本女子選手権へ出場して優勝(1992年、1994年)を経験し、ビーチバレーの楽しさを知っていたからだ。その想いは、アトランタ五輪を経験してより一層強くなった。
「アトランタ五輪は惨敗でした。その時、もう一回、オリンピックに行きたいと思ったんです。次のバレーボール日本代表は、背が高くて若い選手を選出するという方向性だと聞いていたし、次はビーチバレーでオリンピックに行って勝ちたいと。やっぱり負けず嫌いなんですよね。五輪が終わってすぐ、やめさせてくださいとチームに言いました」
「お腹を出すことに抵抗はありました」
1997年3月限りでユニチカを退社し、国内初のプロビーチバレーチーム『ダイキヒメッツ』に入団した。戦闘服は半袖、ショートパンツから水着へと変わった。
「最初は、お腹を出すことに抵抗はありました。お腹を出すのが嫌で、全日本選手権はユニチカのワンピース水着で出ましたから。確かにワンピース水着の着脱はすごく面倒でしたけど、競技自体はそれが主流であれば、それに対してどうのこうの、と私自身は思わないタイプ。当時は何とも思っていませんでした」
ビーチバレーのすべてを受け入れる覚悟で転向したが、最初は思うように動けなかった。砂や風という自然環境を味方につけることができなかった。

