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監督就任2カ月で部内暴力が発覚…当時25歳の沖縄尚学・比嘉公也は“試練”をどう乗り越えた? 球児の心をつないだ秘策「全員、1冊ずつノートを持ってきてくれ」
text by

城島充Mitsuru Jojima
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/22 17:00
2008年センバツ優勝を果たした沖縄尚学・比嘉公也監督。26歳での達成は最年少記録を更新する快挙だった
今夏の地方大会で、沖縄尚学は1回戦で敗退した。その悔しさも背景にあったのか、新チームはノートの提出をそれまでの1週間に1度から、毎日提出するように改めた。
「毎日ノートを通じて交流していれば、わずかな変化にも気づきやすいし、仮に僕との間に意識のずれがあったとしても、すぐに修正できますから」と比嘉は言う。
沖縄の高校球史のなかで、比嘉公也の名は特別な輝きに包まれている。
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沖縄尚学3年生の春、左腕エースとして選抜大会で優勝し、沖縄に初の優勝旗をもたらした。そして監督就任2年目の2008年春には、母校を再び全国優勝に導いている。
「僕は中学時代まで県大会にさえ出たことのないピッチャーでした。そんな男が、こんな体験をさせてもらっているんですから、運がよかったとしかいいようがないですね」
沖縄尚学に入学する野球少年たちのなかにも、比嘉の成功体験にカリスマ性を感じて入部してくる者は少なくない。
だが、その来歴にはただ一点だけ、黒い染みがこびりついている。
もし、その染みがなければ、沖縄尚学の野球ノートは、いや2度目の全国制覇はなかったかもしれない。
赴任直後に発覚した暴力事件
2006年の8月だった。愛知学院大で野球を続け、左ひじの故障で選手生命を絶たれた比嘉が母校に社会科教諭として赴任、野球部の指導者として新たな人生のスタートを切った直後にその事件は起こった。
野球部内での暴力事件が発覚、翌春の選抜出場権のかかる県の秋季大会には第1シードでありながら出場できなかったのだ。
若さは成功すれば賛美と驚嘆の対象になるが、つまずくと格好の批判対象になる。
経験不足、いや、どこかに過信があった――。批判は棘となって胸に刺さり、「正直いって心が折れました」と比嘉は振り返る。
母校の教師になってまだ数力月。足りないものがたくさんあるのはわかっていたが、それにしてもなぜ……。
自問を繰り返すうち、比嘉は猛省とともに一つの事実を認めざるを得なかった。
「結局、僕は目で見える部分でしか、選手たちのことを見ていなかったんです」



