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「新宿の歌舞伎町で人の流れに逆行して歩き…」釜本邦茂、早稲田大時代の伝説…4年連続得点王「4年生が号泣するのを見て、いいことをしたんだなと」
posted2025/08/17 11:00
早慶サッカー定期戦、早稲田大学1年時の釜本邦茂。2025年8月10日、肺炎により81歳で生涯を閉じた
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伊東武彦Takehiko Ito
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日刊スポーツ/アフロ
日本の将来を背負う男「早稲田に行かせてやってほしい」
ア式蹴球部は100年の歴史で数多くのストライカーを日本サッカー界に送り出してきたが、不世出の存在といえば、釜本邦茂をおいていない。ア式のみならず、日本が生んだナンバー1のストライカーである。
1944年4月15日、京都府生まれ。山城高2年生で日本ユース代表となり、高校選手権でも活躍したことで、その名前は関西に知れ渡った。
高校卒業時、大戦前から三菱系の会社員だった父親の希望は、太秦の自宅から通える関学大に進んで三菱重工に入社すること。父親の勤務先に関学大サッカー部のOBがいたこともあって、父親も強硬だったが、山城高サッカー部の部長が、「日本サッカーの将来を背負って立つ男になるから、早稲田に行かせてやってほしい」と後ろ盾になってくれた。
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「下宿代や仕送りも必要になるから家計を思って悩みもしたけど、レベルの高い関東で揉まれて東京オリンピックに出たいという気持ちが勝ったんだね」
銀座に繰り出すも、場違いと悟り…
ユース代表の関係で初めて東伏見に降り立ったのは、5月の大型連休のあとだった。
長身で堂々としていたからか、グラウンドに向かって歩いていると、他部の新入部員らしい学生たちが口々に挨拶をしてくる。同期は、高校選手権の決勝で覇を競ったあとに浪人して一般入試で入学していた修道高(広島)の森孝慈ら、地方出身者が6人。東京の城北高校出身で、日本代表の同僚にもなる大野毅もいた。 寮は6人のタコ部屋時代である。1人あたりのスペースは一畳ほど。テレビもラジオもない。
門限は夜10時半だったが、練習のあとには同期と飲みに繰り出した。新宿や高田馬場界隈で安酒を飲むことがほとんどだったが、一度だけ銀座に繰り出した。銀座4丁目の三越のライオン像の前で待ち合わせてしばらく歩いたものの、場が違うと悟り、店にも入らずに引き返した。

