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「好きなように動き回ればええ。パスはナンボでも出したる」不世出のストライカー釜本邦茂、じつはアシストも凄かった! 早大時代の天皇杯優勝秘話

posted2025/08/17 11:01

 
「好きなように動き回ればええ。パスはナンボでも出したる」不世出のストライカー釜本邦茂、じつはアシストも凄かった! 早大時代の天皇杯優勝秘話<Number Web> photograph by Getty Images

天皇杯で優勝し、子どもたちに囲まれる早稲田大の釜本邦茂(1967年1月)。2025年8月10日、肺炎により81歳で生涯を閉じた

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伊東武彦

伊東武彦Takehiko Ito

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 日本サッカーの歴史を動かした多士済々な人物を輩出してきた早稲田大学サッカー部「ア式蹴球部」。その百年の挑戦の歴史を追った渾身のノンフィクション『早稲田サッカー 百年の挑戦』(伊東武彦・著/徳間書店)より、日本サッカーが生んだ史上最高のストライカー・釜本邦茂の早稲田大学時代のエピソードを紹介します。<全2回の後編/前編から読む>

釜本の身元引受人・川本泰三の口癖

 釜本の早大時代の身元引受人だった川本泰三がア式の歴史におけるストライカー史の嚆矢(こうし)で、ゴールの名人の異名をもつ。

 1914年、愛知県瀬戸市生まれ。実家は瀬戸の代表的な窯元で、あとを継いだ父親は大阪に移り、のちに送電線関係に欠くことのできない碍子(がいし)を製造する会社を興した。

 川本泰三は大阪府立市岡中でサッカーを始め、合格した大阪商科大学(現・大阪市立大学)に入学手続きの手違いで進めなかったことから1931年に早稲田高等学院に入り、17歳から本学のア式蹴球部でプレー。関東大学リーグ4連覇を果たす。

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 卒業後、同盟通信社に勤務していた1941年8月に従軍し、終戦でソビエト連邦(当時)の捕虜として4年に及ぶシベリア抑留を経験した。帰国後に35歳で現役に復帰して1954年のワールドカップ・スイス大会予選に出場し敗れたが、同年のアジア大会に40歳106日で出場。日本代表の最年長記録として現在も残る。

 引退後は会社経営者として経済界でも地位を得ながら、日本サッカー協会理事、関西サッカー協会会長などの要職を歴任し、関西のサッカー界で大きな影響力を維持。川淵三郎や釜本邦茂などの逸材を稲門(とうもん)に導いている。

 ア式に入部した頃は、痩身で飄々とした印象が強かったという。子どもの頃からゴムボールでリフティングをしてボールに親しんだことから、テクニックとイマジネーションが豊富で、サッカーのすべてを集約したプレーがドリブルというのが持論だった。もともと足首が柔らかくボール扱いのソフトさは人一倍で、

「ボールとじゃれる猫を見てみろ」

 が口癖だった。シュート力を身につけたのも、誰に教わるわけでもなく、自らの観察と創意工夫からだ。ア式の猛練習の前に授業にも出ずに、居候していた親戚につくってもらった弁当を持って誰よりも早く東伏見に出かけ、なぜシュートが上に浮くかを考え抜いた。

 そうしているうちに、球が浮くのはボールの下を蹴るからだと得心し、上からボールを叩く癖を自分のものにしてシュートの感覚をつかんだ。

 オリンピックでスウェーデン相手に挙げたゴールは、左サイドからのボールが出た瞬間にゴール前に走り出して、MFが前に送った縦パスを右足のダイレクトで打ったもの。ボールの上を叩いたシュートは低い弾道でゴール左隅に刺さった。

「消える」を最初に使ったのが川本

 センターフォワードとして上下する動きは変幻自在で、相手チームは必ずマーカーをつけた。相手DFの密着から逃れるための工夫が、その視野から消えること。今でもサッカー用語で頻繁に使われる「消える」を最初に使ったのが川本だと言われる。

 川本は晩年、『75年史』の座談会でこう話している。

【次ページ】 「消えろ」と言われ首をひねった釜本

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