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野村克也監督が指名のドラ1左腕「アキラと呼ばれた男」1年目で手術→21歳で戦力外…“消えた天才”の壮絶人生「ヤクルトには感謝してもしきれない」
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph byKYODO
posted2025/08/12 11:04
ドラフト1位でヤクルトに入団したアキラの背番号は「11」。荒木大輔から引き継いだものだった
「投げなければもう、次の年はない」
アメリカで約半年間、リハビリを行なった後、1998年5月に帰国。同年にはイースタン・リーグで実戦復帰したが、その後の回復状況は一進一退で、思うように投げられない歯痒さに苦しんだ。プロ4年目の2000年には登録名を「アキラ」から本名の伊藤彰に戻し、覚悟を決めてマウンドに挑んだ。
「自分のボールを投げられないという苦しさはありました。でも、投げなければもう次の年はない。高卒4年目となれば、翌年には大卒1年目の同い年が即戦力として入ってくるわけです。自分には時間の猶予がないことは敏感に感じ取っていました。だから4年目はもう、肩が痛くても何でも、必死に投げた。それがいいか悪いかは別として、21歳の自分にとってプロで生き残るために投げるしかない、という選択をしたということです」
2000年10月2日、戦力外通告。覚悟はしていた、という。
21歳で突きつけられた「戦力外通告」
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「肩だけでなく、9月には右足首の靱帯も断裂していたんです。練習中にちょっと足を踏み外してパチン、と。即、手術して退院して、イースタン・リーグの最終戦の頃は松葉杖だったんですよ。そんな状況ですからもう、ピッチングどころかボールも投げられない状況でした。もちろん野球を続けたい、まだやりたいという思いはありました。でも、冷静に考えればもう難しい。それは分かっていましたから」
ドラフト1位で入団し、4年間で一軍登板はゼロ。エースの期待を受けた背番号「11」のユニフォームで神宮球場のマウンドに上がることはできなかった。同年代の大卒選手たちが希望を胸にドラフト指名を待つなかで、戦力外通告という厳しい現実を突き付けられた21歳の秋。そこから伊藤さんの第二の人生が始まった。〈つづく〉

