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「7回に突然、肩に激痛が…」山梨学院“夏の甲子園初勝利”のヒーローが暗転「命にかえても、と投げ続け」悲劇の“高校ナンバーワン左腕”が歩んだ道
posted2025/08/12 11:03
「高校ナンバーワン左腕」と注目を浴びた山梨学院大附の伊藤彰投手。3年夏の甲子園では初戦の熊本工戦でリリーフ登板したが……。
text by

佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
SANKEI SHIMBUN
故・野村克也監督時代のヤクルトスワローズに、高校ナンバーワン左腕の期待と共に入団したドラフト1位投手がいた。登録名は、「アキラ」。わずか4年でプロの世界を去った左腕の野球人生と、その後の歩みはどんなものだったのか。現在は山梨学院大学の硬式野球部コーチをつとめる伊藤彰さんに聞いた。〈全3回の1回目/つづきを読む〉
1996年12月16日。東京・新橋の球団事務所で行われたヤクルトスワローズの新入団発表で、17歳は報道陣の注目を一身に集めていた。山梨学院大学附属高校からドラフト1位指名を受けた、高校ナンバーワン左腕。期待の大きさは、袖を通したユニフォームの“背中”に表れていた。
「アラキ」から「アキラ」へ…期待を背負い
背番号は、この年限りで現役引退した荒木大輔がつけていた「11」。同じ調布リトル出身という縁から、空前のフィーバーを巻き起こしたスターに追いつけ追い越せとの願いを込めて引き継がれたものだった。
「ヤクルトの11番、それも荒木大輔さんが背負っていた番号ですから、非常にありがたいことでした。本当に高い評価をして大きな期待をかけてくださった……」
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伊藤さんは静かに振り返る。
背番号の上に刻まれたネームは「AKIRA」。当時ヤクルトには、同じ「イトウ」姓の伊東昭光、伊藤智仁が在籍しており、17歳の登録名は入団前からカタカナの「アキラ」に決まっていた。1994年に登録名を変えてブレークしたイチローの影響もあり、奇抜な名前の登録名は当時の球界のちょっとしたブームだった。背番号「11」のスター選手が「ARAKI」から「AKIRA」へ……そんな話題性もあって、注目はさらに増していた。

