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甲子園の風BACK NUMBER
「ブルペンには草、グラウンドは荒れ果てて」甲子園春夏16回出場・九州の古豪はなぜ“消えた”のか「これじゃ、100年経っても強くならんよ」
text by

内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/08 11:02
1976年、夏の甲子園に出場した柳川高。末次秀樹(左)、久保康生(右)らを擁してPL学園と好勝負を演じた。久保は近鉄、阪神を経て現在「魔改造」を施す名投手コーチとして知られる
「今までの大人が何をしよったとかという話ですよ。僕もOBだから申し訳ないと謝りました。福岡大会で西日本短大付や九州国際大付、東福岡、福岡工大城東と勝ち上がってくるけど、柳川の名前がないので、おかしいなと思っていて、母校に戻ってみたら、やっとその理由が発覚しました。『さっきまでの態度を取っとったら、100年経っても強くならんよ』という話からスタートしました」
ユニホームに一目惚れして
御所監督は福岡県浮羽郡(現うきは市)出身。左胸に縦文字で「柳川」と書かれたクリーム地のユニホームに一目惚れした。中3時の1976年夏。甲子園3回戦でPL学園(大阪)に0対1と接戦を演じた高校に目が釘付けとなった。
「PLが出るということでテレビをつけたら相手が柳川商だったんです。久保さん、立花さん、末次さんら先輩方が着ていたユニホームをパッと見た瞬間、『うわ、かっこいい!』となって。福岡にあることすら知りませんでした(笑)。あのユニホームを着てみたくて、受験して入学することができました」
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当時の柳川商は、県内屈指の強豪校。一学年50人ほどが在籍し、競争も熾烈を極めた。1年夏の新チーム始動初日。福田精一監督から、二塁の守備に就いてノックを受けるように指示された。「守備には自信がありました」と言うように、2年生に負けない動きでアピールしていると、どこからともなく「チッ」と舌打ちが聞こえてきた。その夜、先輩から寮の屋上に呼び出しを食らった。
「なん調子に乗っていいプレーしよるんか」
「『お前、なん調子に乗ってノック受けて、いいプレーしよるんか』と説教されました。ノックを受けただけで怒られるんかと思いましたね。次の日は捕れるボールを捕らない、わざと暴投したりと、あれだけ演技がうまいとは自分でも思っていませんでした(笑)。それを3日間続けたら、ノックから外され、翌春に出場した選抜にもメンバーに入ることができませんでした。あそこでレギュラーを張るぐらい一生懸命やっていたら、甲子園ボーイでしたね」

