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プロ野球PRESSBACK NUMBER
名古屋大学野球部から“史上初のプロ野球入り”「社会人は全部落ちた」元中日育成1位の秀才左腕が明かす“異色の経歴”「高校はバレー部でリベロ」
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph byL)NumberWeb、R)Sankei Shimbun
posted2025/08/04 11:06
2020年に中日の育成1位でドラフト指名を受けた松田亘哲さん。現在はCBCテレビの報道局記者
「背が低かったこともありますが、野球のピッチングとは違う角度で腕を振るスパイクが全然打てなくて、ボールがネットを越えないんです(笑)。それで入って早々に『リベロがやりたいです』って。アタッカーは1回もやったことないんですよ」
当時、高校野球は好きで見ていたというが、自分でプレーするのは体育の授業のソフトボール程度。プロ野球選手を目指すとは、ゆめゆめ思わずにいたという。3年春にバレー部を引退した後は、勉学にも励んだ。進学塾などには通わず、学校の中でみっちり勉強に取り組んだ結果、旧帝大の名古屋大学に現役合格。ここから、松田さんの野球人生が開けていく。
「野球の強豪の大学なら入れないけれど、名大なら硬式野球部に入れるかな、というところで入部しました。入部テストのようなものはなく、高校バレー部出身というのも、特に珍しいことではなかったんです」
球速がウソのように上がっていった
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当時はコーチも野球部のOBがほぼ手弁当で土日に駆けつけているような状況で、練習内容はキャプテンを中心に学生が自分たちで考えて行うのどかな部活だったという。強豪校とは全く違う空気感の中で、ある人物との出会いが松田さんの運命を変えた。
「今まで野球から離れていた分、とにかく周りに追いつかなければと思って最初は投げて走ってとひたすら練習していました。でも1年の夏に外部のトレーナーさんと出会って、話を聞くようになってから僕は変わったんです」
大学近くにある名古屋市内の接骨院で治療していた外部契約のトレーナーと出会い、体の使い方や投球メカニクスのアドバイスを受けるなかで、ピッチングに開眼した。幸いにもバレー部だった高校時代に成長期が重なり、背も15cm以上伸び体も大きくなっていた。日々、練習に取り組むなかで、球速は嘘のように上がって行った。
「元々肩は強い方で、大学に入った時も120kmくらいは出ていたのですが、1年夏は130kmそこそこ。でもトレーナーさんと出会って教えてもらうと、秋には140kmを超えるようになりました。そもそも高校3年間野球をやっていなかったので、自分の型も理論も特になくて、ただ何となく投げているだけだったんです。だからその時、いいと言われたことは素直に全部やりました。今思えば、変な癖がついていなかった分、技術が上がるきっかけを掴みやすかったんだと思います。野球をやっていなかったことが逆に良かったのかもしれませんね」
