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「1991年ドラフトの失敗」暗黒時代の阪神が中村紀洋を獲らず萩原誠を1位指名したワケ…名スカウトの怒り「結局、獲りやすい選手を獲っていた」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/08/04 17:00
1991年のドラフトで阪神が指名した選手。高校生野手にはのちの大打者・中村紀洋もいたが、阪神は萩原誠(中村勝広監督の左隣)を1位指名した
菊地敏幸という男
菊地は、神奈川・法政二高出身。3年生だった1967年夏は、県準決勝で1学年下の武相高・島野修(1968年・巨人ドラフト1位)に敗れ、菊地は高校3年間で甲子園に一度も出られなかった。
芝浦工大に進んだ菊地の2学年上が元阪急の捕手で、イチローを育てたコーチとして名をはせた河村健一郎、1学年上には元西武、オリックス監督の伊原春樹、1971年に広島から1位指名を受けた捕手の道原博幸は同学年。同じ捕手だった菊地にとっては「凄い人ばっかりだったんですよ」。
卒業後に進んだ社会人の強豪で、日本有数のミシンメーカーだったリッカーでの現役生活は7年間。その後、3年間務めたコーチ時代の1983年に阪神から1位指名を受けたのが後のリリーフエース・中西清起(高知)だった。ただ、リッカーは1984年1月に野球部を解散。さらに本社は、その年に経営破綻へと追い込まれている。
プロ経験のないまま阪神のスカウトに
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リッカーを退社した菊地は、警備関係の仕事で会社務めの生活を4年間送った。プロ経験のないまま阪神のスカウトに就任したのは38歳の時、昭和から平成に時代が変わった1989年のことだった。
以来、2014年までの四半世紀にわたり、菊地はその敏腕ぶりを発揮し続けた。
ある年の安芸キャンプ中でのことだった。
「ブルペンに7人、一斉に並んで投げていた時、全部俺の担当選手だった時があったんだよな。あれは嬉しかったよな」
菊地は、関東地域の担当だ。だから裏を返せば、阪神の1990年代後半から2000年代にかけては、地元の関西エリア出身選手が目立たなかったということでもある。
「この当時だと、結局、獲りやすい選手を獲ってるんだよ。結果的にそうなるし、実際にそうだもんね。全然、こう、あえて他球団も評価しているのを、ぶつかって獲りに行こうという、そういう体制は確かになかったよね」

