プロ野球PRESSBACK NUMBER
ノムさんが「そんなに走って、技術練習できるのか?」広澤克実が出会った“3人の名将”「《知将》野村克也監督の神髄は“データのウラの心理”」
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byNaoya Sanuki(L)/Koji Asakura(R)
posted2025/07/16 17:02
陸上部よりも走らされ、走って野球がうまくなるならマラソン選手がホームラン王だろ! と悪態をついていた広澤たちに野村監督がかけた声とは……
「そして、今度は無死満塁の場面で2ボール1ストライクとなった。ここでバッテリーはスライダーを投げると思いますか? いずれも2ボール1ストライクですよ。でも、二度もスライダーを打たれているピッチャーが、三度目もスライダーを投げるはずがないでしょう。野村監督が言っているのは、こうした数字に表れない背後にあるものを見ること、そこにいたるまでの心理に思いを馳せること。これが野村さんの野球なんです」
同じカウントでも、それが試合序盤なのか、中盤なのか、それとも終盤なのかで、事情は大きく異なる。もちろん、得点差も考慮しなければならず、それまでの対戦成績も影響するだろう。こうした「背後」、そして「心理」を重視したものこそ、「ID野球」だった。
FA移籍という決断
「それぞれの選手が、こうしたことを学んでいくことによって、一人一人に自信が芽生えていきました。もちろん、結果も伴うようになる。すると、チームのムードが少しずつ変わっていきました。かつての負けグセはなくなり、少しずつ自信が芽生えていくんです」
ADVERTISEMENT
野村の教えが少しずつチーム内に浸透、定着していく。それに伴ってチーム成績も向上する。92年にリーグ制覇を果たした後は、93年、95年、97年と、隔年で日本一に輝いた。90年代のセ・リーグ、いや野球界の中心はスワローズだった。しかし、95年、97年の日本一に広澤は関わっていない。94年オフ、広澤は悩んだ末にジャイアンツへのFA移籍を決断する。チームを率いるのは長嶋茂雄。野村ヤクルトにとっての宿命のライバルである。
「FA宣言するかどうかは、本当に悩みました。人生には、“やってしまった後悔”と、“やらなかった後悔”があります。それぞれのケースを考えに考えた結果、僕はジャイアンツに移籍することを決めました」
悩みに悩んだというFA移籍。そこには、どんな思いがあったのか? 野村の下で選手として成長を遂げた広澤は、長嶋監督の下で何を学んだのか?
〈2回目につづく〉


