プロ野球PRESSBACK NUMBER
「1億円新居の完成直後に通告されて」佐々木誠が驚愕したダイエー←→西武“史上最大の3対3トレード”の内幕「球団は“出さない”と言ったのに」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byMasashi Ebato(L)/Bungeishunju(R)
posted2025/07/05 11:04
1993年、前年の首位打者のダイエー・佐々木誠(左)と、王者西武の看板打者・秋山幸二(右)を中心とした3対3の「史上最大のトレード」が
ドラ6から叩き上げた佐々木
1983年のドラフト6位指名で、岡山・水島工から南海へ入団。同期になる南海1位は鳥取・倉吉北高の右腕・加藤伸一。他球団に目を移すと、巨人の1位が徳島・池田高のエース・水野雄仁、西武1位が群馬・前橋工の右腕・渡辺久信、ヤクルト2位が兵庫・市立尼崎高の大型内野手・池山隆寛で、中日5位は50歳まで現役を続けた左腕、神奈川・日大藤沢高の山本昌広と逸材揃い。
その中で、高校時代は決して全国的にその名の響いた存在ではなかった佐々木が台頭したのは、プロ4年目の1987年だった。その年、125試合に出場、打率.288、11本塁打、15盗塁。翌88年にも97試合出場、打率.284、16本塁打、13盗塁をマークしている。
それでも、当時は「実力のパ、人気のセ」。パでは、好選手であっても、なかなか日の目を見ない時代でもあった。玄人好みの隠れた逸材とも言える存在だった佐々木が、その秘めた能力を日本中に、さらにはメジャーにも発信したのは、1988年秋に開催された「日米野球」でのことだった。
ADVERTISEMENT
1988年は、南海のラストイヤーだった。大手スーパーを全国に展開していた小売業の雄・ダイエーに球団買収され、平成の新元号に替わることになる1989年から、本拠地が大阪から博多へと移ることも決まっていた。その渦中にもかかわらず、23歳の佐々木は新たなフランチャイズとなる平和台球場で、それこそご挨拶代わりの一発を放つのだ。
メジャー最強投手から放った一発
1988年11月8日。
日米野球第3戦に出場した佐々木は、メジャーを代表する右腕、ロサンゼルス・ドジャースのオーレル・ハーシュハイザーから、右翼席へ本塁打をたたき込んだ。その年、ハーシュハイザーは59イニング連続無失点のメジャー記録を樹立し、23勝を挙げてナ・リーグの最多勝、サイ・ヤング賞を獲得。
名将トミー・ラソーダのもと、ドジャースはワールドシリーズを制して世界一になるが、そのワールドシリーズでもハーシュハイザーはMVP。メジャーを代表する超一流右腕からの一撃で、佐々木は一躍注目を浴びることになる。

