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「なんでオレが3位なの?」セナ、プロスト、マンセルが消え…鈴木亜久里が明かす“F1日本人初表彰台の舞台裏” 「とにかく我慢して何か起きるまで」
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小堀隆司Takashi Kohori
photograph byYuki Suenaga / Hiroshi Kaneko
posted2025/06/25 17:02
1990年日本GPでF1日本人初の表彰台にのぼった鈴木亜久里が、当時のレースの舞台裏を明かした
「いきなり当たって飛び出して、それはよく見えてた。でもコース上に障害物はなかったし、こっちはそのまま第1コーナーに入っていくだけだから、特に気にはしなかったね。それよりも印象的だったのは次の周で(ゲルハルト・)ベルガーがスピンアウトしたこと。何もないコース上で、しかも単独でしょ。何があったのって」
トップに立っていたベルガーが2周目でリタイア。チャンピオンチームのマクラーレンがレース序盤で早くも姿を消したのだ。
時代はまさに「セナ・プロ」時代のど真ん中。ホンダエンジンの活躍を期待し、セナ目当てにサーキットに詰めかけた14万もの観衆は静まりかえった。主役が次々にいなくなる不測の事態で、代わりにレースを盛り上げたのがラルースの亜久里である。
波乱の展開から「チラつく表彰台」
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波乱の展開はその後も続く。中盤、タイヤ交換後の駆動系トラブルでトップのナイジェル・マンセルがリタイアすると、亜久里は5位までポジションを上げる。さらにウィリアムズの2台がタイヤ交換するタイミングで、3位へと浮上した。
思いもしなかった表彰台の影がチラつき、焦る気持ちはなかったのだろうか。
「あの時はなんで3位なのかわかんなかったの。(リカルド・)パトレーゼと(ティエリー・)ブーツェンがピットインしたのを知らないからさ。だから、その時もなんでオレが3位なの? ってノリですよ。まだ後ろからパトレーゼが来るし、とにかく一生懸命走ろうと。それだけだったね」
ニュータイヤを履いて意気揚がるパトレーゼが追い上げを図るも、亜久里もまた追随を許さない。前を行く2台のベネトン勢を追って、難コースの周回を重ねた。
ヒヤッとしたのは終盤、ピットから「燃料」のサインが出たときだった。チームは亜久里が周回遅れになることを予想していて、トップチームより1周分少ないガソリンしか用意していなかったのだ。
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