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「甲子園最速158キロ」の衝撃…寺原隼人はなぜ松坂大輔の球速を超えられたのか?「投げ方をまねしたこともあった」本人が明かした24年前の真実 

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田尻耕太郎

田尻耕太郎Kotaro Tajiri

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posted2025/06/02 11:00

「甲子園最速158キロ」の衝撃…寺原隼人はなぜ松坂大輔の球速を超えられたのか?「投げ方をまねしたこともあった」本人が明かした24年前の真実<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2001年夏の甲子園。1回戦の四日工戦で、寺原隼人は松坂大輔に並ぶ151キロを記録した

「懐かしいですね。あの頃は球速表示が場内のスコアボードに出ていなくて、テレビだけでした。だから僕も気づかないし、スタンドのお客さんも分からないから大歓声とかなくていつも通り。ただ、ベンチに戻るとき、最前列に座っていたオジさんが『154キロ出とったぞ』と教えてくれて、それで知ったんです」

 さらに、それを上回る衝撃の1球が投じられたのは6回裏だった。3―1のリードから1点差に詰め寄られ、なお2死一、二塁のピンチ。再び福田を打席に迎えた場面で寺原の闘争本能に火がついた。4球目、低めのストレートが再度うなりを上げる。ファウルにされたが、この1球がアトランタ・ブレーブスのスカウトマンが持つスピードガンで98マイル(約157.7キロ=四捨五入で158キロ)を計測したのだった。

 当時の日本最速が伊良部秀輝(ロッテ)が1993年に記録した158キロという時代だ。それと匹敵する数値を当時17歳だった寺原はマークしたのだ。

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 その剛速球のルーツとは一体どんなものだったのだろうか。

「(松坂大輔の)投げ方を真似したこともあった」

 宮崎市出身の寺原が野球を始めたのは小学校3年生の頃。きっかけは「父の強制でした(苦笑)」。中学時代は硬式チームではなく通っていた赤江東中の軟式野球部に所属した。エースとなり県大会で優勝。九州大会でも上位進出し、全国大会のマウンドにも立った。しかし、当時の寺原は野球に打ち込んではいたが、友人と過ごす時間も大事にしていた。文化祭では野球部仲間とバンドを組み、ドラムを担当したのも思い出の一つだ。

「それなりに強いチームでしたけど、僕はただ楽しく野球をやりたかっただけ。中学時代も途中までは甲子園へのあこがれや興味も特になかったんです」

 そんな寺原の運命を変えたのが、松坂の存在だった。

【次ページ】 「松坂さんの記録を抜きたい」芽生えた夢

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