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「甲子園最速158キロ」の衝撃…寺原隼人はなぜ松坂大輔の球速を超えられたのか?「投げ方をまねしたこともあった」本人が明かした24年前の真実
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田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byJIJI PRESS
posted2025/06/02 11:00
2001年夏の甲子園。1回戦の四日工戦で、寺原隼人は松坂大輔に並ぶ151キロを記録した
寺原が中学校3年生のとき、松坂は高校3年生。テレビ越しに見たあの甲子園春夏連覇の栄光がとても眩しく見えた。
「松坂さんが僕のスーパースターになりました。投げ方を真似したこともあったし。高校に進んだら甲子園に行きたいという気持ちが突然湧いてきました。宮崎県内ならば日南学園が当時は一番強かったので、そこを選んだんです」
また、中学時代の寺原は新聞配達のアルバイトをした経験があり、それが足腰強化につながりスピードボールの原点になったという話も伝わってくるが、本人は首をかしげる。
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「どうなんですかね。やっぱり高校時代だったと思いますよ。指導者に恵まれたこと。あとは冬場のトレーニング。特に上半身が劇的に変わりました」
「松坂さんの記録を抜きたい」芽生えた夢
日南学園では1年春からベンチ入りするも、本人は周りのレベルの高さに圧倒されていたという。
「入学当初はたしかMAX132キロだったと思います。僕より速い球を投げる選手は先輩だけでなく同級生にもいました。県外からの入学者も半分近くいたし、硬式出身者も多かったし」
日南学園を当時率いた小川茂仁監督からまず指摘されたのは投球フォームの欠点。アーム式だった腕振りを矯正したことで肘のしなりが生まれ、成長の土台が出来上がった。
そして寺原が振り返った12月のトレーニングだ。基本的にボールは握らない。
「走り込みもするけど、それより2人一組になっての手押し車とか上半身を鍛えるメニューが多くて、かつ原始的なものが多かったですね」
ウエイト器具を用いたトレーニングなどはやったことがなかったという。
「冬を越して投げてみたら、スピードガンで計らなくても球が速くなったのを実感できるほど、自分のボールが変わっていました」
高校2年生秋の九州大会では140キロ台後半をマーク。3年生春の県大会では152キロ、6月の市立船橋との練習試合では155キロに到達した。
甲子園へとつながる宮崎大会でも150キロ台を連発して見事に制覇。夢舞台を前に、寺原は一つの誓いを立てた。
「甲子園という場所で、あこがれの松坂さんの記録を抜きたい。その気持ちがとにかく大きかったです」
