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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「ボスは誰だ?」藤原喜明の問いに、船木誠勝が沈黙した会議…藤原組“わずか2年の解散”全真相と、パンクラスを生んだ高橋義生との一戦
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/05/15 17:01
船木誠勝が明かす、プロフェッショナルレスリング藤原組での2年間
「藤原組の2年間は、ものすごくイライラしていました」
しかし、伸び盛りの20代前半で安定を求めた選択はレスラーとしての充実感にはつながらず、その結果、藤原との関係もギクシャクしたものへと変わっていってしまう。
「UWFが3派に分かれたあと、昔の仲間がたくさんいるんで、Uインターの試合はけっこう見に行ってたんですよ。たしか3回行ったんですけど、熱気がすごかったですね。藤原組の会場とはまったく違ったんで、本当のファンはこっちに付いてるんだな、みんなすごく頑張ってるなって感じたんです。なのに俺らは、メガネスーパーからのお金でいい暮らしをして、チケットもメガネスーパーが売ってくれて、ただ練習だけしていればいいのに、会場は盛り上がってなくて、これってどうなのかなって。
だから藤原組の2年間というのは、ものすごく自分でイライラしていました。U系の中でいち早く生活は安定したけれど、なんか作られた中でやってるだけっていうか。自分の力じゃなく親会社の力でこうなってるだけなんだとわかっていたので。それで藤原さんはメガネスーパーありきでやってますから、藤原さんともギクシャクし始めて。昔はあんなに慕ってたのに、いざ同じ団体でやるようになったら、なにか反発する対象になってしまったんですよ。要は親離れできてなかったんです」
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船木や鈴木は、藤原組の契約選手だったが、藤原は親会社のメガネスーパーから団体を任された、いわば雇われ社長。その立場の違いから、藤原と船木らの心の距離はどんどん開いていった。
「藤原組のチケットは一般プレイガイドではあまり売れてなかったんです。だから藤原さんは、いつ田中八郎社長から切られるんじゃないかと、すごく危機感を持っていたと思います。スポンサーを降りられたら終わりですから。だから自分で営業してチケットを売って歩いていたので、あまり練習にも来れなくなった。だけど俺らは、『藤原さんは練習にも来ないで、もうやる気ないのかな』とか、そういうふうに受け取っちゃったんですよ」
「ボスは誰だ?」藤原の問いかけに、船木は沈黙した
92年12月、年内最終興行が終わった数日後、藤原組では旗揚げ時以来の全体会議が行われた。この年の6月、プロレス団体SWSが解散。親会社のメガネスーパーは急速にプロレス事業を縮小させており、藤原組もいつ支援を打ち切られるかわからない状態だった。そんな危機感を共有するための会議だったが、この席上で船木らと藤原の関係は、修復不可能なものになってしまう。
「最後の会議で藤原さんから、『ここままだと、メガネスーパーに応援してもらえなくなる。これからは、ちゃんと俺の言うことをきいてやってくれ』というようなことを言われたんですよ。それで各自の意思確認のために、藤原さんが『ボスは誰だ?』って一人ずつ聞いていったんです。でも、自分は『藤原さんです』と答えられなかったんですね。自分たちの給料は、メガネスーパーから出ていたのがわかっていたんで、『ボスは田中八郎さんじゃないかな?』とか思ってしまって、それで黙っちゃったんです。そしたら藤原さんが『もうダメだな。解散だ』って言って。いま思えば、自分たちが藤原さんに甘えてたんですけど、こうして藤原組での2年間が終わりましたね」
団体のリーダーと若手選手たちの不協和音から、会議の席であまりに突然であっけなく解散してしまった藤原組。それは前田日明邸での会議で起こった、第二次UWFの解散劇とそっくりだった。あれからわずか2年で歴史は繰り返されてしまったのだ。
