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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
酔っ払った前田日明からの電話「俺にもう1回チャンスをくれ」船木誠勝が前田との初試合で“耳打ち説教”された日…UWFでの快進撃にあったウラ事情
posted2025/05/15 17:00

新日本プロレス時代の船木誠勝(1987年撮影)
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
1985年3月、当時の日本プロレス史上最年少記録15歳11カ月でデビューした船木誠勝が、今年格闘生活40周年を迎えたことを記念して『船木誠勝が語るプロレス・格闘技の強者たち』(竹書房)を出版した。
中学を卒業後、アントニオ猪木がフルタイムの現役だった時代の新日本プロレスに入門し、20歳で当時大ブームを巻き起こしていた新生UWFに移籍。その後、プロフェッショナルレスリング藤原組を経て、1993年に“完全実力主義”を標榜するパンクラスを設立。2000年5月のヒクソン・グレイシー戦で一度は現役を引退するまでの船木の歩みは、プロレスから総合格闘技(MMA)が誕生、形成されていった日本格闘技界の近代史そのものだ。
現在の総合格闘技最高峰にして世界規模のMMAの原点であるUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)が誕生したのは1993年11月。そんなUFCが誕生する前、船木たちはプロレスを当時はまだ存在していなかったプロMMA興行にどのように変えていこうとしていたのか。船木に若き日の苦悩と情熱の日々を語ってもらった。《全2回の1回目》
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◆◆◆
船木が本格的にプロレスから格闘技へ踏み出していこうと考えたのは、まだ弱冠20歳の頃。所属していた新生UWFが“格闘プロレス”として大ブームを巻き起こしていた真っ只中だった。UWFブームの頂点である1989年11月29日の東京ドーム大会『U-COSMOS』開催前に船木は右腕を骨折。7カ月間、試合を欠場している中でその思いが強くなっていったという。
「欠場中、考える時間がたくさんあったんですよ。新生UWF自体が“従来のプロレスとは違う格闘技”という取り上げられ方をしていたじゃないですか。でも、実際のUWFの試合はまだプロレスの範囲内だったんで、早く格闘技にしないと矛盾が生じるし、ダメだと思ったんです。団体のトップだった前田(日明)さんはそれは時期尚早という考えだったんですけど、自分は『格闘技にしましょう』『いつになったら変えるんですか?』って、ことあるごとに言っていて、意見が衝突するようになりましたね」
「今だったら干されるでしょうね」前田の忠告を聞かず…
当時はまだリアルファイトの格闘技がプロ興行として成り立つかどうか不確定な時代であり、UWFの客層も大半が従来のプロレスファンだった。そのため団体のエース前田は、若い船木の訴えに対して「あと5年待て」と諭したが、まだ20歳そこそこの船木にとって5年はあまりにも長く感じた。そして7カ月ぶりの復帰戦となった90年4月15日、博多スターレーンでの鈴木みのる(当時・実)戦で、船木は“実力行使”に出る。