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中日・落合博満がキレた「罰金?払えばいいんでしょ」星野vs落合の不仲説「罰金2000万円と2カ月間の出場停止も…」星野仙一が焦った“落合造反事件”
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2025/02/24 11:02
1986年12月26日、中日入団発表で星野監督(当時39歳)と握手する落合博満(33歳)
当初は、巨人移籍が確実視されていた三冠男だったが、新監督に就任した星野は現役時代に弟分として可愛がった牛島和彦を含む、1対4の大型トレードを成立させ、逆転で争奪戦を制した。クリスマス・イブ前日の12月23日、落合は信子夫人を伴い、五木ひろしのクリスマス・ディナーショーに出かけるという名目で東京プリンスホテルの裏口から入り、星野が用意した部屋で三者会談に臨み、「背番号6と年俸1億3500万円」を提示された。これは当時の日本人最高年俸である。
「不仲? オレと落合では土俵が違う」
だが、年が明けるとキャンプイン後すぐ、「注目の中日ドラゴンズで燃える男星野とマイペース男落合が『対決する日』」(週刊サンケイ1987年2月26日号)といった報道も多く、野球観から人生観まで正反対の二人の関係を危惧する声は当然あった。
「選手と監督では、監督の方が偉いんだ。ケンカになるはずがないじゃないか。不仲? それは同じ土俵に立つ人間同士の関係のことだ。オレと落合では土俵が違うじゃないか」(星野仙一 魅力ある男だけが生き残る/学研)
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周りがどれだけ焚き付けようが、あくまで監督と選手。立場が違えば喧嘩にもならない。星野は表向きはそのスタンスで、球界最高年俸の落合をイチ選手として扱った。星野中日は初年度に前年5位から2位へ躍進すると、2シーズン目の1988年にリーグVを達成。打撃不振で2カ月も四番を外されたオレ流だが、それでも8月は月間MVPと盛り返す。終わってみれば32本塁打、95打点の成績を残し、プロ10年目で自身初の優勝の美酒を味わった。だが、事件はそのオフに起きる。
“落合造反事件”「罰金2000万円と2カ月間の出場停止」
昭和が終わり、平成が始まったばかりの1989年1月17日。長野県の昼神温泉で家族を伴って自主トレ中の落合は、ベスト体重を超えたら1キロにつき10万円の罰金という首脳陣の方針に、「何といわれようと、今年はオレ流を貫く」と集まったマスコミに向かって公言する。
「体重が増えたことによる罰金? 払えばいいんでしょ。上の人が判断することだよ。現役時代は適当にやっていた人ほど、監督になると“やれ、やれ”っていうもんだよ」(週刊ベースボール1989年2月6日号)
翌18日のスポーツ各紙には「落合造反」と大きく取り上げられ、自主トレ先の発言が瞬く間に監督批判の舌禍事件へと拡大する。故郷の岡山県・倉敷に帰省中だった星野は、記者に対して、「不平や不満があるのなら、まずコーチに希望を申し出て、そこで話し合えばいいんだ。それが順番だ」と冷静なコメントを残したが、中山了球団社長は、「チームの和が乱れるような要因は見過ごすべきではない」とオレ流の処分を検討。これに反発した落合が引退を示唆するなど、騒動は泥沼化していく。
のちに落合は球団から知らされた当初の処分が、「罰金2000万円と2カ月間の出場停止」という極めて重いものだったことを自身のYouTube『落合博満のオレ流チャンネル』で明かしているが、まさかの退団宣言に焦った星野は主力選手の宇野勝、小松辰雄、鈴木孝政らを昼神温泉へ向かわせ、事態の収拾に務めたという。
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