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「寝床で冷たく…死因は栄養失調だった」“消えた天才騎手”がシベリアの強制収容所で迎えた最期…「最年少20歳でダービー制覇」前田長吉とは何者か?
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島田明宏Akihiro Shimada
photograph bySadanao Maeda
posted2025/02/20 11:02
女傑クリフジとのコンビで1943年の日本ダービーを制した前田長吉。20歳3カ月での優勝は現在も残る史上最年少記録
「前半は抑えて行け」と尾形に指示されたとおり、序盤で無理に挽回しようとはせず、後方で折り合いをつけた。勝負所で馬群の内から進出。直線で鋭く抜け出し、2着を6馬身突き放して優勝した。人馬ともにクラシック初制覇を遂げたのだ。
「赤紙」によって終わった騎手人生
前田長吉・クリフジのコンビは、オークス(当時は秋に開催)と菊花賞も勝ち、ほかに例のない「変則三冠制覇」を達成した。
この年、前田は73戦21勝、2着8回、勝率28.8%。障害でも勝ち鞍をおさめた。
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デビュー3年目の1944年、戦況が悪化したため、競馬は、観客を入れず、馬券も発売しない「能力検定競走」として行われた。
5月、クリフジは横浜記念を圧勝し、戦績を11戦11勝とした。6月、前田はヤマイワイで中山4歳牝馬特別(のちの桜花賞)を優勝、クラシック4勝目をマークする。
春の能力検定競走で、前田は37戦15勝、2着9回。着外となった馬の記録は残されていないので、実際はもう少し多く騎乗したかもしれない。
秋は、東京修錬場(のちの馬事公苑)と京都競馬場でほぼ同時期に行われる能力検定競走のどちらかに乗ると思われたが、彼に「次」はなかった。10月、召集令状、いわゆる「赤紙」を受け取り、旧満州に出征することになったのだ。彼の騎手としてのキャリアは、21歳で終わってしまった。
23歳の若さで…天才騎手がシベリアで迎えた最期
能力検定競走で着外がなかったと仮定すると、前田の3年間の通算成績は124戦42勝、2着19回、3着15回、4着8回、5着8回、着外32回。勝率3割3分9厘となる。勝率2割で一流と言われる騎手界において、驚異的な成績である。
1945年8月、旧満州で終戦を迎えた前田は旧ソ連に抑留され、シベリア・チタ州の収容所で、多くの日本兵とともに強制労働に従事させられた。
まじめで、年長者を立てることを忘れなかった前田は、「前田がやります!」と、率先してきつい作業をこなした。
厳寒期のシベリアは、零下50度を下回る日もある過酷な環境だ。
1946年2月28日の朝、前夜まで普通に戦友たちとやり取りをしていた前田が、丸太を組んだ寝床で冷たくなっていた。
死因は栄養失調。5日前に23歳になったばかりだった。
馬と競馬と騎手という職業を愛し、ひたすら精進しつづけた、才能豊かな若者が、時代の荒波に呑み込まれて世を去った。歴史のなかに封印されながら、「奇跡」を起こして今の世に自身の名を蘇らせた強さもまた「前田長吉らしさ」と言うべきなのだろう。
<中島啓之・福永洋一編へつづく>
