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「寝床で冷たく…死因は栄養失調だった」“消えた天才騎手”がシベリアの強制収容所で迎えた最期…「最年少20歳でダービー制覇」前田長吉とは何者か?
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島田明宏Akihiro Shimada
photograph bySadanao Maeda
posted2025/02/20 11:02
女傑クリフジとのコンビで1943年の日本ダービーを制した前田長吉。20歳3カ月での優勝は現在も残る史上最年少記録
名伯楽が大絶賛「天才騎手といえるほどの少年」
前田長吉は1923年2月23日、青森県三戸郡是川村(現在の八戸市)の農家に生まれた。8人きょうだいの7番目(四男)で、小さなころから家にいた馬に乗り、世話をしていた。
八戸市や周辺の町村では、毎年2月、「えんぶり」という、800年以上の歴史を持つ豊作祈願の祭りが行われている。前田は、この「えんぶり」で吹く笛を、馬の上でも、風呂のなかでもよく吹いていたという。
いつしか彼は騎手になりたいと思うようになり、16歳だった1939年、家出同然に上京。東京競馬場に厩舎を構えていた調教師・北郷五郎のもとに入門する。しかし、北郷が翌1940年1月に亡くなったため、同じ東京競馬場の尾形藤吉厩舎に移籍した。
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騎手としてデビューしたのは19歳だった1942年。この年は12戦5勝、2着2回で、勝率は41.7%だった。
師匠の尾形は、著書『競馬ひとすじ』にこう記している。
<北郷さんのところから引きとった前田長吉は(略)、馬にさからわずに柔らかく乗り、見ていると、まるで自然に飛んでゆくようだった。頭もよく、まったく私の指示どおりに競馬をするのでおどろいた。天才騎手といえるほどの少年で、これはいいのが出てきたと私は非常に楽しみに思った>
調教師として歴代最多の日本ダービー8勝を含め、八大競走を39勝、通算1670勝というとてつもない成績をおさめ「大尾形」と呼ばれた伯楽にそう言わしめたのだ。
兄弟子の保田隆芳によると、前田は、カリカリしたところのない、おとなしい性格だったという。
そんな前田は、キャリア2年目の1943年、競馬史に残る大仕事をやってのける。
牝馬クリフジを頂点に導いた“戦時下の日本ダービー”
同年6月6日の第12回日本ダービーに、前田は2戦2勝の牝馬クリフジで参戦した。太平洋戦争が激化し、東京六大学野球などが中止になったなか、軍需資源である馬が主役の競馬は多くの客を入れて開催されていた。
出走馬は過去最多の25頭。当時はスターティングゲートがなく、出走馬は、横に張られたバリヤーの手前に整列した。そのバリヤーが斜め上方にはね上げられるのが、スタートの合図となっていた。
両隣の馬の隙間が狭く、クリフジに十分なスペースが与えられない状態のまま、バリヤーが上がった。クリフジは、外の馬とともに2馬身ほど出遅れてしまった。
それでも前田は慌てなかった。

