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車いすの天龍源一郎が見せた笑顔、藤波辰爾は“確執”を越えて…ジャイアント馬場「没25年追善興行の情景」引退の太陽ケア「馬場さんには感謝しかない」
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原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2025/02/03 17:00
リングの中央に置かれたジャイアント馬場の「16文」シューズ。1月31日、後楽園ホール
引退試合の太陽ケアが語った“馬場さんへの恩義”
ハワイ生まれのモスマンは馬場に直訴して全日本プロレスに入ったが、馬場がその後のモスマンの大活躍を見ることはなかった。モスマンは1994年11月にデビュー。1997年8月には世界ジュニアヘビー級王座を奪取、1998年6月にはヘビー級に転向したが、ここからが試練だった。1999年1月、馬場がこの世を去ってしまったため、モスマンは馬場にヘビー級での雄姿を見せることはできなかった。
2000年になると秋山準とタッグを組むようになるが、全日本プロレスは激震に見舞われた。三沢光晴らが設立したノアに秋山や小橋や田上ら多くの選手が参戦していったからだ。残ったモスマンが飛躍的に伸びたのは2001年だった。1月の東京ドームでの馬場追悼興行で武藤と戦い、3月には天龍の三冠ヘビー級王座に初挑戦した。いずれも勝てなかったが10月には武藤と組んで世界タッグを奪取。さらには藤波、西村のIWGPタッグ王者も破って、全日本と新日本の2つのタッグ王座を獲得。世界最強タッグ決定リーグにも優勝した。翌年も小島聡と組んで最強タッグを2連覇したが、右ひざを負傷して1年の欠場を余儀なくされた。
2006年、諏訪魔を倒してチャンピオンカーニバルに優勝したモスマンは、7月に小島を下して、ついに三冠王者になった。初防衛戦には川田を指名し防衛したが、9月には鈴木に負けてしまう。モスマンはどうしてもタッグのイメージが先行する。短かったが、三冠王者になれたことはモスマンの大きなプライドだ。
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鈴木らとのGURENTAIもいい思い出だ。自由にやることができた。
「GURENTAIで一緒にやったのはたったの2年間だけど、2人でずっと世界タッグを持っていて、それでケアを通してオレが会ったこともないジャイアント馬場さんを感じることができた。(ケアは)全日本プロレスを30年間、一度も抜けずに残ってきた。一緒にやっていて、なんか気が合うんだよ。タッチのタイミングとか、角度とか、細かいところがビシッとハマっていく最高のパートナー。アメリカ人でハワイアンなのに日本でだけプロレスをやってきて、日本人以上に全日本プロレスを知っているんじゃないかな」
そう言って鈴木はニヤッと笑った。
「ジャイアント馬場さん、ありがとうございます。プロレスを始められたことはチャンスでもあり、ギャンブルでもあったが、馬場さんに拾ってもらったことには感謝しかない。リングに上がるときは馬場さんのためにもと思って戦って、夢を叶えられた」
モスマンは和田レフェリーに手を上げられて、リングを降りた。





