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「ん? 骨折。でも遠征に行くから」18歳松坂大輔の死球で顔面骨折も…ホークス日本一を支えた37歳秋山幸二の鉄人伝説「こんな顔でよかったら喜んで」
posted2025/01/22 17:00
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph by
Kazuaki Nishiyama
発売中のNumber1112・1113号に掲載の《[福岡ダイエーホークス初の日本一]1999年の秋山幸二は背中で語る。》より内容を一部抜粋してお届けします。
「秋山さんにいてもらわないと」
バッターボックスの秋山幸二が両手で顔を押さえたまま、よろめきながら崩れ落ちた。怪物ルーキーの速球がすっぽ抜けて直撃。左頬骨を砕いたのだ。
1999年9月8日、福岡ドーム。首位に立つダイエーがゲーム差1.5で迫り来る2位・西武を本拠地に迎えていた。同点の2回裏。満員の大観衆から悲鳴のような声が漏れる中、マウンドでは18歳の松坂大輔が帽子を取って呆然と立ち尽くしていた。
37歳の大ベテランは担架に乗せられ退場。ほどなくして救急車で病院へと運ばれた。この年に選手会長を務め、二塁のレギュラーだった浜名千広はその壮絶な死球を一塁ベンチで見ていた。秋山の容態が心配だったのは当然だが、チーム全体のことも考えなくてはならない立場だ。
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「どのくらい戦列から離れてしまうのだろう。秋山さんにいてもらわないと、どうしたら……というのが頭をよぎりました」
ホークスが常勝でなかった頃
ダイエーが優勝するかもしれない。当時の球界でそれは大珍事だった。万年Bクラス球団。親会社が変わり大阪から福岡へ移っても、立派なドームが完成しても、'95年からは「世界の王」王貞治が監督になってもチームはなかなか変われなかった。
秋山は移籍6年目だったこの'99年にキャプテンに就任した。かつては常勝軍団の西武で6度の日本一、8度のリーグ優勝に貢献している。そのV体験が美酒の味など知らない選手ばかりのダイエーに必要なのは言うまでもなかった。ただ、浜名は言う。
「秋山さんと僕でこうやってチームを引っ張ろうみたいな話は一度もしてません。秋山さん自身もその肩書きで何かが変わったわけでもない。もともと言葉は少ない人。僕もそうだし、みんなも秋山さんの背中をずっと見ていました」
病院での検査を終えた秋山は自宅ではなくドームに戻った。当時球団広報だった田尻一郎はその時のことを強烈に憶えている。