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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「キク、達川を助けてやってくれ」あの星野仙一が涙を流し…中日の“伝説”左腕が振り返る「闘将秘話」と壮絶半生「ミツバチにわざと腹を刺させて…」
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/01/16 11:04
熱くチームを率いた中日監督時代の故・星野仙一氏
「グラウンドは戦場」闘将の信念
山田さんが中日入団時の指揮官は、故・星野仙一監督だった。就任4年目で四十代前半だった「闘将」は、その二つ名そのもの血気盛んで常に闘志に燃えていた。
「グラウンドに入ったらそこは戦場、というのが星野さんの考えでしたから、当時はチームの雰囲気もピリッとしていました。対戦相手と喋ろうものなら、ものすごく叱られましたよ。日本代表の活動がある今とは違って、他のチームの選手とは交流もそこまでなかったですし、はっきりと敵だという意識がありました。もちろん、乱闘もありましたしね。ユニフォームは戦闘服。やられたらやり返してこい、というのが星野さんでした」
大目玉を食らったことも一度や二度ではない。中でも山田さんが忘れられないのは、駆け出しの頃、ナゴヤ球場での広島戦でリリーフ登板した時のこと。四球を連発して、1死満塁の大ピンチ。浅いフライと内野ゴロでピンチを切り抜け、なんとか無失点でベンチに戻ると、鬼の形相の指揮官が待ち構えていた。
スパイクのまま正座で…
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「『後ろで正座しとけ!』と怒鳴られました。0点で抑えたからと言って結果オーライじゃないんだぞ。勝負して打たれるのは何も言わんけど、逃げてフォアボールは許さん、と。ベンチ裏にあるスイングルームの鏡の前で、試合が終わるまでずっと正座です。床は硬いしスパイクを履いたままだったので、めちゃくちゃ足が痛かったことをよく覚えていますよ(笑)」
しかし、いったん“戦場”を離れれば、とてつもなく深い情をかけてくれるのも星野監督だった。
「僕はプロ3年目の時に先発で初勝利を挙げたんです。その時すでに星野さんは監督を辞められていたのですが、『初勝利おめでとう』と時計をいただきました。ユニフォームを脱げばオヤジという感じで、二十歳そこそこの若造をすごく可愛がってくれました」
「闘将」は、1996年から再び監督として中日に帰還する。その頃、山田さんは投手として曲がり角に差し掛かっていた。一軍登板なしに終わった1998年10月に突然、星野監督から芦屋のホテルに呼び出されたという。
星野監督が見せた涙
「翌シーズンから広島の監督に就任することが決まっていた達川(光男)さんから、星野さんのところに連絡があったらしいんです。『キク、達川が欲しいって言ってる。ドラゴンズにはいつでも戻ってこられるから、1年間、達川のところに行って助けてやってくれないか』と。星野さんは半分、涙していました。こんないち選手のために涙を流してくれるなんて……本当にありがたかったです」
星野監督への恩義を胸に金銭トレードで広島へ移籍。左のストッパーとしてもう一花咲かせるべく新天地で一歩を踏み出したが、その矢先にまさかの出来事が起こる。99年開幕を前にした巨人とのオープン戦のブルペン。投球練習をしている時に、右脇腹に激烈な痛みが走った。