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長嶋茂雄は「5歳下・王貞治の三冠王を5回阻止」、広岡達朗も困った守備範囲…「馴れ合いじゃないON巨人」とライバル史は現代指標でも衝撃的 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2024/10/14 11:30

長嶋茂雄は「5歳下・王貞治の三冠王を5回阻止」、広岡達朗も困った守備範囲…「馴れ合いじゃないON巨人」とライバル史は現代指標でも衝撃的<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1964年東京五輪を観戦する王貞治と長嶋茂雄。球史に残る「ON砲」は記録面においては最強のライバル同士だった

 1957年のRF1位は国鉄(現ヤクルト)の箱田だった。ちなみに広島の広岡富夫は、元巨人でヤクルト、西武などの監督として活躍した広岡達朗の兄だ。

 翌1958年入団した長嶋は、打撃だけでなく、三塁手としても一挙にトップに立つ。主として三塁ゴロである補殺数385はダントツ。守備範囲が抜群に広かったのだ。ただし三塁守備でライバルと言われた阪神の三宅は守備率で長嶋を上回っている。

 1959年も長嶋がRFでは1位、長嶋は以後も三塁手として抜群の守備成績を収め、1967年までの11年間で9回RFで1位になっている。以後、守備範囲は狭くなったが、ダイナミックな守備は引退するまで長嶋の魅力だったのだ。

名遊撃手・広岡の守備範囲が数値的には狭まった

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 実は、抜群に守備範囲の広い長嶋が三塁手としてデビューしたことで、かなり難儀していたと推測されるチームメイトがいる。巨人の正遊撃手・広岡達朗だ。

 同じ東京六大学の花形選手として1954年に早稲田大から巨人に入った広岡は、阪神の吉田義男とともに「名遊撃手」の名をほしいままにしていた。

 長嶋入団前年の1957年には広岡はRF5.07で、セ遊撃手の中でトップだった。ライバルの吉田義男は4.40で4位。それが、長嶋が入団した1958年になると、広岡のRFは4.39まで低下し4位になる。吉田義男は4.98で1位。広岡の守備処理数は15%近く減少してしまったのだ。

 三遊間に打球が飛んで、広岡が身構えると、長嶋が派手な動きで飛び出してきて、横っ飛びでボールをつかんで一塁に送球した――とは、昭和の野球ファンの昔語りだが、この数字はそれを如実に物語っている。広岡達朗の渋い顔が目に浮かびそうだ。

 そんな打者・長嶋茂雄のライバルと言えば、誰の名前が浮かぶだろうか。

 まず、大洋ホエールズの近藤和彦を挙げたい。長嶋と同学年、平安高時代に甲子園出場。東京六大学では明治大のスター選手として立教大の長嶋としのぎを削っていた。

 長嶋は入団2年目の1959年から60年、61年と3年連続で首位打者になるが、60年、61年の打率2位が近藤だった。俊足の左打者でアベレージヒッターだったが、打率2位を4回記録するも、ついにタイトルは取れなかった。後年はフジテレビの「プロ野球ニュース」での穏やかな京都訛りの解説が耳に残っている。

 ついで、広島カープの古葉毅(のち竹識)だろう。

【次ページ】 長嶋は王の三冠王を5回も阻止していた

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