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「僕、ビックリして、この人すごいなと…」20歳のイチローを救った仰木彬監督の言葉「あの強烈な一言には本当に救われました」
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph byKYODO
posted2024/10/02 17:00
1994年9月、当時のシーズン最多安打記録に並んだイチローと握手をかわす仰木彬監督
「思い出すと今でも救われる監督の言葉があるんです。'94年4月、やっと一軍に定着できたかなという頃でした。福岡で4打数1安打の試合があって、その1本は二塁打でした。試合は完封負けを喰らって、僕はその前の日も5タコだったので、ハッピーじゃないって感じで振る舞っていました。そうしたら監督がヒョロヒョロっとやって来て、いきなりこう言ったんです。『二塁打1本? いいじゃないか、試合なんて関係ないよ』って……僕、ビックリして、この人すごいなと思ったんです。試合に負けたのに、監督が選手に向かって、自分のことだけ考えてやればいいって言ったんですよ。チームのためにやれと言う監督ばかりなのに、あり得ないでしょう。4の4を打っても、5の5を期待されるのが普通だったのに、4の1でいいんだよなんて……あの強烈な一言には本当に救われました」
「ずいぶん遠回りをした感覚があります」
イチローが仰木と出逢ったのは20歳になったばかりの頃だ。'93年のオフ、プロで2年を終えて、飛躍を期待されていた“オリックスの鈴木一朗”はハワイのウインター・リーグに派遣されていた。高卒ルーキーの1年目、ファームで打ちまくった鈴木は、ジュニア・オールスターで代打ホームランを打ってMVPの賞金100万円を獲得、ウエスタン・リーグで打率.366を記録して首位打者となっている。しかし鈴木の1年目は一軍に定着することなく、2年目も一軍と二軍を往復した。その頃のことをイチローはこう話している。
「210本のヒットを打ったのはプロ3年目、20歳のときですけど、僕としては1年目にファームでやって、2年目には一軍で3割を打つつもりでした。だからずいぶん遠回りをしたという感覚があります」
10代の鈴木が遠回りを強いられたのは当時の首脳陣との間に軋轢があったからだ。独特のバッティングフォームをオーソドックスなスタイルに変えろという当時の土井正三監督や担当コーチの指示に従わず、二軍行きを命じられた。そんな不遇な2年を終えたタイミングで鈴木はハワイのウインター・リーグに参加していた。そこでも打率.311を記録して、日本人で唯一、ベストナインに選ばれている。そんなとき、鈴木は仰木と出会う。
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