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「スズメが飛ぶだけで…臆病だ」90年代唯一の三冠馬ナリタブライアンはなぜ“普通の馬”扱いされたか「兄ビワハヤヒデよ、そんなに走らないで」
posted2024/06/01 11:00
text by
鈴木学Manabu Suzuki
photograph by
Keiji Ishikawa
これまで乗ったどの馬にもない柔らかな背中だったんです
「これはモノが違うかもしれない」
ナリタブライアンに跨った途端、村田光雄は黒鹿毛の2歳馬の柔らかな背中に驚いた。
「ハミ受けも全然違う」
速いキャンターに下ろした時の、重心を下げて加速していく感覚、そして鞍上からのサインに対する反応の鋭さに酔いしれた。「ほんと、これまで乗ったどの馬にもない柔らかな背中だったんですよ」
このエピソードを、ナリタブライアンの世話をしている持ち乗り調教助手に聞いたのは1993年夏、ナリタブライアンがデビューに向けて札幌競馬場で調整している時だった。
札幌最大の繁華街・すすきの。その中心部にあるビルに入っている『一心亭』で、オリジナルの鉄板鍋を囲み村田光雄の話を聞いていた。
僕はその春、東京本社の記者でありながら、毎週のように関西に出張して栗東トレセンでの取材に明け暮れていた。それだけに夏の北海道開催で札幌に出張しても、親交を温めていたのは栗東トレセンで働く、僕と同世代の調教助手や厩務員だった。村田も年齢が近いこともあって(といっても僕のほうが4歳ほど上だが)自然と仲が良くなり、北海道で村田ら数人の厩舎仲間と一緒に食事をすることになった。
村田光雄は北海道新冠町西泊津生まれ。そこで生産牧場を営むハクツ牧場の場主・村田紀光とその妻・クニエとの間に三男として生まれた。静内農業高校を卒業後、知人の紹介で名門・メジロ牧場に就職し、馬の乗り方を教わった。メジロマックイーンの育成にも携わったという。
前のめりでナリタブライアンを絶賛し始めた
メジロ牧場での3年間の修業後、千葉県白井にあるJRA競馬学校厩務員課程に進み、厩務員として1990年春に大久保正陽厩舎に入った。