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「不可解判定で退場」「なんで伊野波があそこに?」長谷部誠の心も乱れた“2011年アジアカップの大事件”「日韓戦の勝敗を分けたのは…」
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byTakuya Sugiyama
posted2024/01/22 17:11
2011年のアジアカップで4度目の優勝を果たし、トロフィーを掲げるアルベルト・ザッケローニと長谷部誠。同大会も波乱の連続だった
このまま逃げ切りたいが、試合はなおも動く。延長後半が15分になろうかというところで、FK後の混戦から同点弾を喫してしまうのだ。勝敗の行方はPK戦へ持ち込まれた。
PK戦の順番を決めるコイントスには、遠藤保仁が向かった。長谷部が交代していたからだ。
先攻の日本は本田、岡崎が決め、韓国のシュートは川島が2本連続で止めた。3人目の長友佑都は枠を逃すものの、韓国の3人目もシュートをミスした。4人目の今野泰幸が落ち着いて流し込むと、青色の歓喜が爆発した。
主将の腕章を遠藤に託した長谷部が、試合後にこんな話をしている。両足を痙攣させての交代を「情けないですね」と自戒しつつ、自らがピッチをあとにした意外なメリットを明かした。
「PK戦は先攻のほうがいいし、先攻になって良かった。僕は試合の始まりも延長の始まりもコイントスで負けていたんで。ヤットさんがトスに勝ってくれてよかったです」
大会の歴史に刻まれた李忠成の「劇的ボレー」
準決勝から4日後の1月29日、日本はファイナルでオーストラリアと激突した。4年前のアジアカップでは準々決勝で対戦し、1対1からのPK戦で勝利している。
決勝戦までの道のりはドラマティックであり、とびきりのスリルに満ちていた。言い方を変えれば、際どくて危うい戦いの連続だった。
決勝戦も延長戦までもつれた。スコアは1対0である。またしても紙一重の攻防となったが、この一戦は事件もトラブルも見当たらない。必然と言っていい勝利だった。
この試合唯一のゴールは、延長後半の109分に生まれた。李忠成のボレーは大会の歴史にも刻まれるものだが、そのきっかけは56分の選手交代にあった。負傷離脱の香川に代わって先発した藤本淳吾を下げ、ザックは岩政大樹を送り出した。彼と吉田のCBコンビで最終ライン中央の高さを強化し、今野が左CBから左SBへスライドすることで守備ブロックを盤石にした。
さらには、左SBから左MFへポジションを上げた長友が、より高い位置でプレーできるようになった。李の決勝弾につながるクロスは左サイドの長友から供給されたものだった。
このアジアカップから11年後、日本はオーストラリア戦と同じスタジアムでスペインを撃破する。かつて“悲劇”に見舞われたドーハは、いまや大きな歓喜を呼び込む舞台となっている。今回のアジアカップでも新たな歴史を刻むことが、2年後のW杯、さらにその先の力強い足跡につながっていく。
<第1回「1992年大会」編、第2回「2004年大会」編とあわせてお読みください>