箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
青学大・原晋監督が“傷だらけのエース”に「4年間、ありがとう!」…出岐雄大が振り返る“最後の箱根駅伝”「どんな状態でもゴールしようと」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byAsami Enomoto
posted2024/01/06 11:02
満身創痍で“最後の箱根駅伝”に挑み、ゴールテープを切る青学大4年時の出岐雄大さん。アンカー起用の裏には、原晋監督の熱い思いがあった
「これも今だから言えるんですけど、あのびわ湖毎日は確か(ロンドン)オリンピックの選考レースになっていて、自分ではそこで頑張ってオリンピックの代表になって、もうその年で陸上を辞めるというのがモチベーションだったんです。ヘンな言い方ですけど、辞めるというモチベーションがあったからこそ頑張れた。結局、あれがマラソンの自己ベストなので」
区切りをつけるために出場したマラソンが、逆に陸上を続けるための理由になってしまった。結果として、勧められるままに実業団チームに進み、わずか3年ほどでランナーの活動にピリオドを打った。そのことを、出岐さんは今も会社に申し訳なく思っているようだった。
東京マラソンで引退を決意「これはもうダメだ」
引退を決めたのは、中国電力の陸上競技部に所属して3年目のこと。2016年2月の東京マラソンで、2時間15分49秒の26位。自身3度目のマラソンを最後に翌3月、退部と現役引退を同時に発表した。
その時の心境を、改めてこう振り返る。
「実業団に入ったらまた気持ちが変わるかなと思ってやっていたんですけど、やっぱりずっと難しくて……。広島には知り合いもいないですし、私自身も柔軟な方じゃない。もやもやした気持ちを誰にも伝えられず、走ることは苦しいままでした。手を抜くことが嫌だったので、怪我をしない程度に追い込む練習をしていたんですけど、3年目になるともう練習から気持ちが入らなくなってきて。
あの東京マラソンも、走り始めて5kmくらいで『これはもうダメだな』って。レース中も今後のことをどうするか、ずっと考えているような状況でした。こういうのって勢いがないと言えないので、レース直後に監督に『辞めたいです』と。期待して採っていただいたのに結果で返せなくて、すごく申し訳ない気持ちでしたね」
体の問題ではなく、心の限界だった。25歳の時の決断に後悔はなかったか、と聞くと、一瞬のためらいもなく答えが返ってきた。
「ないですね。走っているときの方がよっぽど辛かったので、悔いはないです」