- #1
- #2
侍ジャパンPRESSBACK NUMBER
「日本とキューバが参加しない大会なんて…」日本はもともとWBCに乗り気ではなかった? 通訳が語る「真の野球世界一決定戦になるまで」
text by
小島克典Katsunori Kojima
photograph byUPI/AFLO
posted2023/03/30 17:42
日本の3度目の優勝で幕を閉じた2023年のWBC。4大会連続で通訳を務めた小島克典氏は、舞台裏からWBCの成熟を見つめてきた
「この雰囲気、最高じゃろ!」忘れがたいアトランタの夏
山本さんは長きにわたり“アマチュア野球界のドン”として活躍された方で、野球の国際化、特にオリンピックでの正式種目化に大きく貢献された球界の大先輩です。個人的にも自分が通訳をはじめる転機となった1996年アトランタ五輪で、情熱的なひと夏をご一緒させていただいたことがありました。
特に印象的だったのはアトランタ五輪の準決勝です。満員の大観衆が発する「U.S.A!」コールを敵に回しながら、侍ジャパンの前身となる野球日本代表は、アメリカ代表を倒して決勝に進みました。普段から元気いっぱいの山本さんが「なぁ、おい、この雰囲気、最高じゃろ!」と、くしゃくしゃの笑顔で本当に嬉しそうに語ったあの姿は、いまも忘れられません(思えばアトランタ五輪の決勝戦も、日本対キューバでした)。
山本さんのタフな交渉が実を結び、NPBの優勝チームがMLBの優勝チームと真の世界一を争う「スーパーワールドシリーズ」の構想が動き出したという話を聞いたのは、2000年頃のことでした。ところが2001年、ニューヨークで発生した同時多発テロの影響を受け、2003年に予定されていたスーパーワールドシリーズは残念ながら白紙となってしまったのです。
真の野球世界一決定戦を――単独チームから国別対抗へと形は変わりましたが、山本さんの想いはWBCへと引き継がれ、大会は着実に成長してきました。山本さんは、2006年の第1回大会での日本の優勝を見届け、同年5月26日に天寿を全うされました。
山本さんの想いを知ったアトランタの夏から27年。はじめてWBCを意識したデトロイトでの会見から、はや18年が経ちました。WBC誕生の裏には、実はこんなストーリーもあったのです。
「谷繁さんのパシリ」として帯同した第1回大会
やたらと日韓戦が多かった第1回大会は、横浜時代の先輩である谷繁元信さんのGo Boy(パシリ役)として帯同させてもらいました。アメリカ戦での“疑惑の判定”もあって第2ラウンドで1勝2敗となり、翌日帰国するつもりでシゲさんの買い物にお供していたら、「お前もいるか?」と数百ドルもするビンテージジーンズを買ってもらったことを覚えています。
しかし買い物の途中、唐突にシゲさんの携帯電話が鳴り、「おい!(ホテルに)帰るぞ!」と言われタクシーに飛び乗りました。メキシコがアメリカを破り、1勝2敗の3チームのうち失点率がもっともよかった日本が準決勝に進むことになったのです。そこから初優勝までの裏話は……いつか別の機会にでもお話しさせてください。