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PL学園に行けず「名前も知らなかった」大阪桐蔭へ…西岡剛が明かす“西谷監督との修羅場”「めっちゃ怒られたし、僕も向かっていった」 

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byJIJI PRESS

posted2023/03/20 11:00

PL学園に行けず「名前も知らなかった」大阪桐蔭へ…西岡剛が明かす“西谷監督との修羅場”「めっちゃ怒られたし、僕も向かっていった」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

「西谷先生からはめっちゃ怒られたし、僕も向かっていったし」。西岡剛が大阪桐蔭時代を語った

 学校から帰ってくると父親と3時間、みっちり練習し、夕食後もバッティングセンターでバットを振る。郡山シニアに所属していた中学時代も変わらず、野球漬けの日々を送った。「まさに英才教育。遊んだ記憶なんてほとんどなかった」。それでも西岡は「PLに入るためなら」と、青春を犠牲にした。

 当時、PL学園の野球部は、スカウトの井元俊秀の目に留まって入部した選手がほとんどだった。80年代黄金時代の象徴とも言える桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」の素質を見抜くなど、「伝説のスカウトマン」として高校野球界の知る人ぞ知る人物だった。

 はっきりと覚えている。中学3年の夏だ。

「西岡を獲ることはできないそうだ」

 シニアの練習後、チームを通じて井元の意思を告げられた西岡の視界が真っ暗になる。

「野球を辞めたい」

 そう投げやりな気持ちに陥るほど、一途だった少年は傷つき、帰宅すると自室に閉じこもり、涙に暮れた。

「名前も知らなかった」大阪桐蔭になぜ進学?

 食事もとらずに泣き明かし、迎えた朝。西岡はふいに目覚めた。

「PL学園を倒せる高校に行きたい!」

 当初、そこに大阪桐蔭の選択肢はなかった。全国制覇の経験があるとはいえ、92年以降は甲子園から遠ざかっており「名前も知らなかった」くらいである。

 その西岡が一転して大阪桐蔭への進学を決意したのは、ほかならぬ西谷浩一の存在があったからだ。

「一番熱心に声をかけてくれたのが西谷先生だったんですよ。親も『必要とされる場所に身を置くことが幸せだと思うよ』と言ってくれたし、『ここでPLを倒そう』って」

 PL学園の打倒に燃える西岡。監督となって2年目、29歳だった西谷。ふたりの情熱が交錯する。

「お前、辞めろ!」食い下がる西岡

 かつてNumberでの西岡の記事で、大阪桐蔭時代に「やめさせたいんなら、殺してみろ!」と、西谷に啖呵を切ったエピソードが紹介された。20年も前の出来事ではあるが、念のため確認をとると「本当っす」と本人が頷く。

 1年生の夏。大阪大会前のことだった。

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