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大八木弘明監督の「走り方が汚い」でスポーツ推薦を断念…駒澤大“常勝軍団”の礎を築いた主将・神戸駿介が明かす「“一般組”がキャプテンになるまで」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byShigeki Yamamoto
posted2023/01/22 11:00
大八木弘明監督から声援を受ける神戸駿介。監督が「あの代は本当によくやってくれた」と感謝を口にする世代のキャプテンが当時を振り返った
「なぜ自分と相部屋だったのかはわからないです(笑)。ただ、入ってきたときから大物でしたね。どっしり構えているというか、物怖じすることがあまりなくて。練習も最初は同じメニューをしていたんですけど、僕らが4年になった頃にはもう完全に別メニューでした。みんな素直に、田澤やべえって。結果もすぐに出してましたからね」
元気の良いルーキーに背中を押されるようにして、チームは上昇気流を描き始める。田澤は1年目から5000mと10000mで学生トップクラスの記録を叩き出し、出雲駅伝ではエース区間の3区で東洋大の相澤晃(当時4年)に次ぐ2位に入るなど、早くもチームの中心選手になりつつあった。
人生で一番ショックな出来事だった、3年の全日本大学駅伝
神戸もこの年、春の男子2部関東インカレ・ハーフマラソン決勝で5位に入賞するなど、飛躍の時を過ごしていた。そして、秋の全日本駅伝で、神戸は3年生にしてついに藤色の襷を身につける。
任された区間は各大学の主力が集まる3区。そこで神戸は大きな挫折を経験した。
「頭が真っ白になったんです。周りが相澤さんとか各大学のエースばかりで、走り出してからウワッてなっちゃって。ここでもし止まったらどうなるんだろうとか、そんなことまで考えて。体もガチガチだし、どんどん抜かれて、終わってからやっと(自分が)流れを止めてしまったんだと気づいたくらいです。4年生にとっては最後の全日本駅伝だったから本当に申し訳なくて……。先輩は慰めてくれましたけど、ミスをした怖さが半年くらいずっとありましたね」
名前に気圧されたのだろうか。タイムだけではない差を感じてしまい、神戸は思うような走りができなかった。「人生で一番ショックな出来事だった」と振り返る痛恨の走りで、区間16位。その後は、7区で区間賞を取った田澤らの活躍でチームは3位まで巻き返したが、「あそこで自分がもっと走れていたら」との後悔は拭えなかった。