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メッシとマラドーナを祝福のち天国へ…“24時間態勢”ペレ葬儀に23万人、刻まれた「1940~∞」ブラジル在住日本人が見た“盛大な別れ”
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/01/07 06:00
フットボールの王様ペレ。ブラジルは彼を盛大に送り出した
セレステさんは、娘たちと共に屋上へ出ていた。手を合わせ、群衆と共にカトリックの祈祷を唱える。祈りが終わると、白いハンカチを取り出して涙を拭った。
それから、消防車はやって来た道を引き返し、スタジアムの脇を通って墓地へ向かった。
午後2時、消防車が墓地の入口に到着した。衛兵たちによって棺が下ろされ、墓地の建物の中へ消えていった――。
私生活では“恋多き男”として知られ、3度結婚
ペレはサンパウロ州の小都市バウルーで育ち、15歳でサントスFCのU-20へ。すぐにトップチームへ昇格し、16歳でデビュー。たちまち主力選手となり、1957年から実に9年連続でサンパウロ州選手権の得点王に輝いた。ブラジル代表にも選ばれ、1958年、17歳でW杯スウェーデン大会に出場。6得点をあげ、優勝の立役者の1人となった。「天才少年」と謳われ、サントスFCは世界中から招待を受けて海外遠征を繰り返した。
1962年から2年連続してクラブ世界王者となり、1962年と1970年のW杯でも優勝。W杯を3度制覇し、代表とクラブで合計5度も世界王者となったのは彼しかいない。
1969年初めにコンゴとナイジェリアへ遠征した際には、「ペレのプレーを見たい」という思いが敵と味方で一致して、戦争と内戦が一時的に停止された(このことを、ペレは生涯、誇りに思っていた)。
1969年11月、前人未到の通算1000得点を達成し、1977年にニューヨーク・コスモスで引退するまでに1367試合に出場して1282得点を記録したとされる。
引退後は、テレビの解説者を務めたり、映画やCMに出演したり、歌をレコーディングしたり。指導者の道には進まず、終生「ペレ」として生きた。
私生活では“恋多き男”として知られ、3度結婚して5人の子供と2人の婚外子(1人は認知し、1人はDNA検査で父親とされたが認知を拒んだ)。初恋の人は日系人の少女で、最後に愛した女性(3番目の妻)も日系人。それ以外にも、41歳のときに当時17歳の美人モデル(後にテレビの子供番組の司会者として、また歌手として国民的スターとなった)と5年間に渡って交際したことでも知られる。
W杯ではメッシと「ディエゴ」に対して祝福
フットボーラーとしてのペレが成し遂げた偉業は永遠に不滅だが、エジソン・アランテス・ド・ナシメント(彼の本名)は生身の人間だ。1997年、右の腎臓を摘出。2012年に腰を手術してからは、歩くのが困難になった。2021年、結腸に腫瘍が発見されて摘出したが、以後もがんの治療などで入退院を繰り返していた。
昨年11月末、サンパウロ市内の病院に再び入院。W杯カタール大会の熱戦は病室のテレビで観戦し、決勝でアルゼンチンが白熱した攻防の末にフランスを下すと、「メッシと彼のチームは優勝に値した」と祝福。「ディエゴ(・マラドーナ)も喜んでいることだろう」ともコメントした。
その後、クリスマスを病院で過ごし、12月29日午後、息を引き取った。