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アルシンド「日本は僕にとって第二の故郷」“鹿島→ヴェルディ禁断移籍”のウラ話、J2甲府加入の息子を“100%本音”で語る
posted2022/09/07 17:02
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
アルシンドは、2シーズンに渡って鹿島アントラーズで活躍。なおかつ、ファンから非常に愛されていた。にもかかわらず、1995年、当時、鹿島の最大のライバルだったヴェルディ川崎へ移籍した。
鹿島からヴェルディに電撃移籍した真相とは
——鹿島からV川崎へ移籍した理由は?
「2つある。1つは条件面で、もう1つは鹿島に居づらくなってしまったから。1994年ワールドカップ(W杯)の期間中、Jリーグが中断し、ブラジルへ一時帰国した。30時間くらいかけて再来日した。夏だったので非常に暑く、長旅の疲れと時差ボケ(ブラジルと日本の時差は12時間)でヘトヘトになった。
日本へ着いた翌日の午前、チャリティーゲームがあった。スポンサーがらみの試合だったと思う。疲れていたので、前半だけプレーしてホテルで休んでいた。すると、試合が終わり、『スポンサーとのイベントがあるので出席しろ』という指令があった。そんなことは聞いていなかったし、ひどく疲れていたから、『勘弁してくれ』と断わった。
ところが、このことがクラブ関係者を怒らせてしまったらしい。この年の末に契約が満了したんだけど、クラブ側は契約更新にあまり乗り気じゃないと感じた。ただ、ひょっとしたら、これは僕がそう思っただけかもしれないんだけどね。その後、ヴェルディからオファーがあり、移籍を決意した」
——1996年は当時JFLのコンサドーレ札幌でプレーしますが、4月末の試合で主審を繰り返し罵って退場処分を受け、4試合出場停止。さらに6月の試合でも退場処分を受け、6月限りで札幌を退団してブラジルへ帰国します。当時、Jリーグの審判をどう思っていたのでしょうか?
「時折、首を傾げるような判定があったと感じていたのは事実だ。また、この頃、コリンチャンスからオファーを受けていた。フラメンゴと共にブラジルを代表する名門クラブであり、ここでプレーをしたくないブラジル人選手はいない。ただ、日本の審判の技術はその後、非常に進歩したんじゃないかな」
33歳で引退を決断した理由とは
——母国のコリンチャンスとフルミネンセに在籍した後、1997年後半、再びヴェルディ川崎でプレーします。