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蝶野正洋「猪木さんは10年先を見ていた」「闘魂三銃士は猪木さんより“薄い”かもしれない。でも」ミスターG1が語る“プロレス人気の正体”
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph byToshiya Kondo
posted2022/08/18 11:00
黒のカリスマとしてプロレス界で存在感を発揮し続ける蝶野正洋
「いや、猪木イズムに関して言えば、俺は背負わされたとは思っていなかった。武藤さんもたぶん、思っていない。一番“闘魂”という言葉に敏感で、それを欲していたのは、亡くなった橋本選手じゃないかな。俺は付き人として猪木さんの凄さを間近で見ているから、闘魂という言葉が重たかったし、自分についてくるのが煩わしかった。
あの人は、1日24時間ずっとアントニオ猪木でしかいられないんだよ。寝ている間も、ファイティングポーズをとってるんじゃないかって思うほど。そんなこと普通の人間には、少なくとも俺には真似できるわけがないからね。この精神的な距離感は、棚橋選手たちの感覚とは明らかに違うと思う」
――では、新日本がここまで観容動員を増やすことができた要因はなんでしょうか。
「俺がいたころの新日本は良くも悪くも営業の会社で、宣伝広報の部隊がほとんど機能していなかった。それまでずっとゴールデンタイムでテレビ中継されていたから、それを見てもらうことが最大の宣伝だった。だからそこに優秀な人材をあてて、智恵を働かす発想がなかったんだと思う。現場にいた俺たちにとっても、最大の目標はテレビ中継をゴールデンに戻すことだったから。その最も足りなかった部分に、ブシロードの木谷高明社長が力を入れたことが大きかったんじゃないかな。
例えば、G1クライマックスの宣伝に多額の予算をつぎこんで、JRや東京メトロの駅構内をG1のポスターで埋め尽くしたよね。それを見た乗客が携帯で撮影して、ツイッターやフェイスブックで拡散してもらうことが目的だったらしいけど、そういう視点がプロレス界には必要だったと思う。ただ、長い間、負債を抱えてきた会社だから、その利益が選手たちに反映されるには時間がかかる。たぶん、あと5年はかかるんじゃないかな」
藤波さんや長州さんは国内市場、猪木さんは海外に照準を
――それは、蝶野さん自身の経験から?
「そう。'90年代の新日本はだんだん借金も返せてきて、いよいよゼロになっていろんな方向性を模索していった時代だったけど、現場への還元にはかなりの時間がかかった」
――当時の新日本には、どんな方向性やビジョンがあったのでしょう?
「藤波辰爾さんや長州力さんは、国内の市場をより拡大したい考えだった。猪木さんはアジアや共産圏をターゲットにしようとしていた。'90年代半ばだったかな、ユーロスポーツが新日本のメインクラスではなく、安く買える中堅どころの試合を流したんだけど、そのプロレスが現地のファンに受け入れられた。同じ様に放映されていたWWF(現WWE)とかのアメリカンプロレスより視聴率がよかったんだよ。
じゃあ、メインクラスの試合も放映できるようにコンテンツを拡大しようと、俺も交渉のためにフランスに飛んだけど、結局、価格的な条件がかみあわずに頓挫してしまった。もし、あのとき、ヨーロッパで新日本プロレスが本格的な足場を築いていたらって考えることもあるけど、こればかりは仕方ないね」