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「危ないから帰ってきて。これは戦争なのよ」ロシア名門ボリショイバレエ学校に留学中の18歳に突きつけられた現実「すぐには理解できなかった」
text by
イワモトアキトAkito Iwamoto
photograph byAkito Iwamoto
posted2022/05/20 11:00
名門ボリショイバレエ学校に留学していた梶川陽菜さん(18歳)。刻々と変わる情勢を受けて、3月にロシアから帰国を決意した
3月4日、スーツケースに入れられるだけの荷物をまとめて宿舎を出た。寮母のニコラエフナにお別れを告げると「これは戦争じゃないわ。帰らなくていいじゃない。何でそうなっちゃうのかしら」と言い、どこかへ消えてしまった。アントニチェバは「すぐに戻ってくるのよ。それまでレッスンをさぼっちゃだめよ」と笑った。「はい、落ち着いたら戻ります」と元気に答えた。
そのつもりだった。持って帰れない荷物は寮の一室にまとめた。段ボールの中にはお気に入りのワンピースが今も入っている。
「きっとすぐにボリショイに帰れると思って……。でも、こんなことになるなんて。もう取りに戻れないのかな」
空港に着くと、大韓航空のカウンター前には長い列、並ぶ人々からは不安と焦りを伝わってくる。無事に離陸した機内でようやく安堵感に包まれた。
ソウル経由で帰国。日本のテレビで映し出されたウクライナの姿に目を疑った。優しかったロシアの人々が銃を持って戦っている。信じられなかった。それでもロシアのバレエを学びたいと、今はともに帰国した仲間たちとオンラインレッスンを続けている。相変わらずアントニチェバはよく怒る。でもその声は画面越しだと伝わらない。
「もっと腕を上げてと言われても、そのニュアンスがわからない」
限界を感じている。
「平和じゃないと踊れないんだ」
帰国後は大府市内のバレエスタジオ コンチェルトでレッスンを続ける日々。練習生の少ない午前中にスタジオを開けてもらい、じっくりと動きを確かめる。7月末に国内で開かれるコンクールに向けて選んだ演目は大好きな『ライモンダ』。映像を海外のバレエアカデミーに送り、留学の誘いを待つ。
ロシアからの帰国後、思うようになったことがある。
「平和じゃないと踊れないんだ。これまで楽しくバレエを続けてきたけど、楽しいと思えたのは当たり前のように平和があったからなんだって」
戦争が終わり、いつか平和が訪れたらロシアへ向かいたい。その時は留学生ではなく、プロのバレリーナとしてボリショイのステージで踊りたい。
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