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明徳義塾OBが語っていた“寮生活のリアル”「48人部屋が2つ。2段ベッドが24台」「おかしい部分を撤廃するのに、4年かかりました」
text by
菊地高弘Takahiro Kikuchi
photograph byHideki Sugiyama
posted2022/03/23 11:04
2002年、夏の甲子園で初の全国制覇を成し遂げた明徳義塾ナイン。チームキャプテンは現ヤクルトコーチの森岡良介だった
「選手からすると、寮じゃないチームには負けられないですよ。練習が終わってヘトヘトになっていても、洗濯、風呂、ご飯、朝の早起き、これを全部自分でやらなきゃいけないんですから」
そして内村コーチは柔和な表情のまま、こう付け加えた。
「『負けてたまるか』という思いは、スタッフに対してもありますよ。我々は学校だけじゃなく24時間、生徒を預かっています。熱を出して普通の食事ができない子にはおかゆを作ったり、病院に連れて行ったりすることもありますから」
越境入学の球児に「なんだ、大阪の落ちこぼれか」
1985年生まれの川崎コーチは大阪府出身で、中学では数々の名選手を輩出した強豪・八尾フレンド(現・大阪八尾ボーイズ)でプレーした。毎年、八尾フレンドから明徳義塾に進む選手がおり、川崎少年は同じ内野手の先輩で明徳義塾のキャプテンまで務めた田山国孝に憧れていた。
「田山さんから『明徳の馬淵監督は野球の指導がすごいのはもちろん、生活も24時間つきっきりで生徒と過ごしてくださる』と聞いて、『この監督のもとでやりたい』と思ったんです」
もともと早起きができるタイプで、寮生活も「田山さんからだいたい話は聞いていた」と大きな戸惑いはなかったという。
高校1年時、こんな出来事があった。ある試合会場でトイレに入ると、中年男性から声をかけられた。出身地を尋ねる男性に大阪出身であることを告げると、男性はつまらなそうな顔をしてこう吐き捨てた。
「なんだ、大阪の落ちこぼれか」
馬淵監督が語った「閉鎖的なところがある」という県民性は15歳の少年の心をえぐった。だが、川崎コーチは指導者として高知に戻った後、異なる印象を抱いたという。
「3年間の経験がDNAに刻まれている」
「高知の人は温かいし、『来る者拒まず』と受け入れてくれる器の大きさを感じます。ベンチにいれば野次は聞こえないし、いい人が多いなと感じています」
高校3年時には甲子園に春夏連続出場を果たした。大学卒業後、京都共栄での指導者生活を経て、馬淵監督から「ウチでやらんか」と声をかけられ2016年から母校のコーチになった。山を分け入って母校に帰ってきた川崎コーチは「家に帰ってきたな」という感慨を覚えたという。
「明徳は私の第二の故郷ですから。3年間の経験がDNAに刻まれているんです。それくらい濃い3年間でした」(前編よりつづく)
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