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“解任を14回も味わった”呂比須ワグナー52歳「精神的に立ち直るのに2年かかった」 ガンバでの挫折後も監督業を続けるワケ

posted2022/01/11 11:01

 
“解任を14回も味わった”呂比須ワグナー52歳「精神的に立ち直るのに2年かかった」 ガンバでの挫折後も監督業を続けるワケ<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

インタビューに応じてくれた呂比須ワグナー

text by

沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

PROFILE

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Hiroaki Sawada

ブラジルから帰化を選択し、日本サッカーに貢献した人物は多い。その代表格の1人が呂比須ワグナー。フランスW杯の日本代表に名を連ねたストライカーは指導者になって以降、紆余曲折のキャリアを歩んでいる。そんな彼に現状、そして岡田武史監督時代、中田英寿らとともにプレーした現役時代の秘話を聞いた(全2回/後編も)

 一見、柔和な紳士。しかし、実はかなり泥臭い。温室育ちのエリートなどでは全くない。ブラジル・サンパウロ州の内陸地で育まれた雑草だ。

 呂比須ワグナーは18歳で地球の反対側へ渡り、苦労の末、“ジャパニーズ・ドリーム”をつかんだ。しかし現役引退後、指導者としては浮き沈みの激しいキャリアを送ってきた。

父親が落雷で急死、母親も子供たちも働いた

 まずはあまり知られていないであろう、彼の人生を振り返っていく。サンパウロ州フランカで、8人兄弟の末っ子として生まれた。4歳になる10日前、父親が落雷で急死。一家は完全に打ちのめされた。しかし、生きなければならない。母親が学校の給食調理員として働き始め、子供たちも働いて家計を助けた。

 ワグナー少年も、小学校から帰ると、自宅で靴のソールを接着剤で貼り付ける内職を数時間。その日のノルマを達成すると外へ飛び出し、近所の子供たちと夢中でボールを蹴った。

 地元のアマチュアチームに入ったが、週日は練習に参加できず、週末の試合にだけ出場した。15歳で名門サンパウロのアカデミーの入団テストを受けて合格。スタジアムの内部にあった選手寮に住み、ホームシックで涙を流しながらもプロになる夢を追った。

 17歳でトップチームに昇格したが、ブラジル代表のカレッカ、ミューレルら錚々たるアタッカーがおり、試合に出場できるのは彼らが故障したときか、代表に招集されて不在のときくらい。

加茂周監督に言われた「成功したかったら日本語を」

 1987年、チームメイトの元ブラジル代表CBオスカールが日産へ移籍することになり、彼の推薦で一緒に日産へ。加茂周監督に「日本で成功したかったら、日本語を覚えろ」と言われ、それを実行した。柏レイソル、ベルマーレ平塚、名古屋グランパスなど計7クラブで16年間プレーし、リーグ戦(アマチュア時代を含む)で349試合に出場して239得点。往年の名ストライカー釜本邦茂の202得点を超えた。

 日本での生活に馴染み、1992年に長男が生まれると「家族全員で日本人になりたい」と考えて帰化を申請。5年越しで国籍を取得した。すぐに日本代表へ招集され、1998年ワールドカップ(W杯)のアジア予選、そしてW杯に出場。ジャマイカ戦で中山雅史の日本代表W杯初ゴールをアシストした。

 2002年末に現役を引退し、指導者の道へ。2005年、サンパウロ郊外の小クラブ、パウリスタのコーチとなった。2007年に胆石の手術をして入院生活を送った後、2010年、パウリスタのコーチに復帰して監督に昇格し、2011年、コパ・パウリスタ(サンパウロ州の中堅クラブを集めたカップ戦)で優勝した。

 そして2012年、ガンバ大阪の監督に招聘された。

【次ページ】 ブラジル1部の監督を務めた初の日本人に

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