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高校入学時は158cm…「マメ」と呼ばれた又吉克樹が“独立L出身のFA移籍第1号”になるまで《中日→ソフトバンクへ》
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byNanae Suzuki
posted2021/12/23 17:03
ソフトバンクのFA移籍した前中日・又吉克樹。高校入学時、身長158cm&体重は50kg未満で、打撃投手を任されていた
「体育教諭になって野球部の監督になりたかった」
取り柄はスタミナだけというサイドスロー。まだドラフト2位でプロ野球に入り、FA移籍する投手になるとは、本人も含め誰も想像していなかった。
「僕は体育教諭になって野球部の監督になりたかったんです。大学に進んだのもそのためでしたし、野球部に入ったのも将来、練習メニューを考えるのに役に立つと思ったからなんです」
岡山県の環太平洋大に進学。実際に保健体育の教員免許も取得した。「試合で投げられるようになれれば、それで十分」と考えていた野球部で、運命の出会いがあった。2年時まで指導を受けた田村忠義監督は、広島県の広陵高校から日本鋼管、日本鋼管福山でプレーした投手だった。1974年には太平洋からドラフト1位、翌75年にもヤクルトから2位指名された(入団拒否)一流の野球人。何よりもサイドスローだったことが、幸いした。
独立リーグ挑戦も「ダメなら教師への道を進もうと」
体の使い方を学び、身長もグングン伸びた。もう誰も「マメ」とは呼ばなくなった4年生になると、ストレートの球速は144キロまでアップしていた。教諭になる夢は凍結し、進んだのが四国アイランドリーグ・香川。ただし2年以内という期限を設けていた。
「それでダメなら教師への道を進もうと。父からも『若いうちにしかできないことがある』と背中を押してもらえたので」
1年間で球速は148キロを記録し、さらにレベルを上げた又吉は、もはや雑草ではなかった。
ホークス復権のキーマンになれるか
人生は出会いときっかけに満ちている。打たれるために200球投げた毎日が、打たせない仕事に生きている。たまたま進んだ大学の指導者が、サイドスローの好投手だった。仲間よりも成長期が遅かった。大学卒業後に人生設計の軌道修正に理解を示してくれる両親がいた…。何かが欠けていれば、誰にも知られぬ雑草のまま終わっていた。今頃は沖縄の球児とともに汗を流していたはずだ。
そうではなく又吉は独立リーグ出身者、初のFA移籍を果たした。ペナント奪回に燃えるソフトバンクの一員として、22年はブルペンを支える。