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「僕が戦犯でした」「だったら首振ってくれよ、と」横浜高時代の正キャッチャーが松坂大輔に《19年間聞けずにいた》こととは

posted2021/10/20 06:01

 
「僕が戦犯でした」「だったら首振ってくれよ、と」横浜高時代の正キャッチャーが松坂大輔に《19年間聞けずにいた》こととは<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

松坂大輔(中央)と小山良男(左隣)は、いつもペアだった。それでも、小山には聞けないことがあったのだ。

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph by

Hideki Sugiyama

2021年10月19日、「平成の怪物」松坂大輔が現役最後のマウンドに上がりました。数々の栄光のスタート地点となった1998年、甲子園での春夏連覇を成し遂げた横浜高校時代の盟友で正捕手、小山良男が当時を振り返った記事を再公開します(初公開:2017年5月9日、肩書などすべて当時)

 なぜ「松坂」という固有名詞には「世代」という単語が続くことになったのか。今回、特集の取材に出る前にふと疑問に思った。

 王貞治、江川卓、清原和博、松井秀喜……。松坂大輔より前にも甲子園に怪物はいた。だが、それはあくまで個人を指すものであり、周囲からあまりにも突出し、それだけで認知される固有名詞が独り歩きする様が怪物性をより浮き彫りにしていた。

 だって、みんなと肩を組んで歩く怪物なんて、それっぽくないではないか。にも関わらず、妙にしっくりと響く「松坂世代」という言葉の正体は何なのか。それが知りたかった。

 世代の中でおそらく投手としての松坂と、最も“対話”を重ねた選手は小山良男ではないだろうか。横浜高校の主将であり、正捕手だった彼は春夏連覇のフィナーレまで、言葉だけではなく白球も介して、その心情を受け止めてきた。そんな小山が19年経った今も松坂に聞きたくて、聞けないことがあるという。

松坂は、小山のリードに1回も首を振らなかった

 今年4月、桜が散り始めた頃、コーチとしてノックバットを握るナゴヤ球場に彼を訪ねると、はにかみながらこう語った。

「(サインに)1回も首を振られた記憶がないんですよね……」

 今なお鮮明なのは1998年夏の甲子園、死闘として語り継がれるPL学園との準々決勝だ。この試合が延長17回にも及んだ大きなポイントの1つに、横浜が1点リードで迎えた延長11回、2死二塁の場面がある。

 PLの4番古畑和彦を抑えた横浜バッテリーは次打者・大西宏明の初球にカーブを選んだ。小山のサインに松坂がうなずいたわけである。だが、これをレフト前に運ばれて同点。死闘の幕を開けてしまったのだ。この時、一呼吸置こうとマウンドに足を運んだ小山は、そこで松坂にこう言われたという。

「大西にカーブはダメだって!」

【次ページ】 「松坂は、自分のギアを上げることで抑えてしまう」

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