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<“平成の怪物”引退>松坂大輔と横浜・小倉部長の3年間 「言い返した覚えがあります」「ボクは褒められて伸びるタイプじゃなかったのかも」
posted2021/10/18 11:01
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
AFLO
1998年の高校野球は、松坂大輔を中心に回っていた。初めて出場した春のセンバツで優勝、夏はPL学園、明徳義塾との名勝負を制し、決勝戦でノーヒットノーランの快投を見せた。
同年秋のドラフト会議で西武ライオンズから1位指名を受けて入団。ルーキーイヤーの99年に16勝を挙げて最多勝を獲得、新人王にも選ばれ、ベストナイン、ゴールデングラブ賞まで手に入れた。
そのシーズンのある日、筆者は松坂の“兄貴分”だった石井貴を取材するため所沢にいた。ライオンズの二軍グラウンドでは、松坂がピッチング練習をしていた。守備位置には誰もおらず、松坂のボールがミットを叩く音だけが響く。182cmの彼はプロ野球選手としては大柄ではないが、実際の身長よりもはるかに大きく見えた。右腕がしなやかに体に巻きつき、ボールは獲物を狙うカメレオンの舌のようにホームベースに向かって伸びていった。
取材中、松坂が近づいてきて…
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ベンチで取材をしているところに、ピッチング練習を終えた松坂がスパイクを履き替えるために近づいてきた。石井が「こいつには、もう100万円分くらい飯食わせてますからね」とふざけて言うと、彼は「いつもありがとうございます!」と、人懐っこい笑顔で答えた。
その後の松坂は、ライオンズ在籍8年間で108勝を挙げ、最多勝、沢村賞など多くの栄光をつかんだ。06年オフにはメジャーリーグ移籍を果たし、ボストン・レッドソックス、ニューヨーク・メッツで計56勝をマークした。しかし、筆者が『参謀の甲子園』(小倉清一郎著、講談社+α文庫)の巻末に掲載するインタビューを行ったときは、キャリアの下り坂にいた。
17年4月、松坂は36歳になっていた。メジャー生活の後半は肩の故障に苦しみ、15年に入団した福岡ソフトバンクホークスで再起を目指していた。16年に1試合だけ一軍登板したものの、かつてのピッチングを再現することはできなかった。それでも、取材を行う部屋に入ってきた松坂は、プロ1年目と同様、屈託のない笑顔を見せた。それは、横浜高校時代の恩師である小倉清一郎さんに関する取材だったからだろう。
松坂は20年前のことを、冗談を交えながら話した。
中学時代に、横浜の名物部長である小倉に初めて会ったときのこと。つらかった夏合宿、果てしなく続くアメリカンノック。神奈川や甲子園を勝ち抜くために欠かせなかった「小倉メモ」――元メジャーリーガーではなく、丸刈りの球児がそこにいるかのようだった。