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《命日》“K-1の大スターで功労者”アンディ・フグが遺した“礼節、誇り、気高さ”「彼のかかと落としは、まさにフォトジェニックだった」 

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長尾迪

長尾迪Susumu Nagao

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photograph bySusumu Nagao

posted2021/08/24 11:02

《命日》“K-1の大スターで功労者”アンディ・フグが遺した“礼節、誇り、気高さ”「彼のかかと落としは、まさにフォトジェニックだった」<Number Web> photograph by Susumu Nagao

K-1GP1996にて優勝を飾ったアンディ・フグ

小柄なアンディが猛者たちを倒していった衝撃

 アンディは翌年の『K-1グランプリ'95』に出場したが、当時は無名だったマイク・ベルナルドに1回戦でKO負け。同年のK-1リベンジでも返り討ちにされた。無差別級で100キロを超える猛者の中で、彼の身体は明らかに小さく、見劣りするのは事実だった。

 1996年のK-1グランプリは3月に16名による開幕戦が行われ、アンディは無難に勝ち上がった。本戦は5月に行われたが、もはや彼は優勝候補ではなかった。“暴君”ピーター・アーツ、“剛腕”マイク・ベルナルド、“MR.パーフェクト”アーネスト・ホーストなどの強者揃いだった。アンディが彼らに勝つのは不可能だろう、と誰もがそう思っていた。しかし、彼はトーナメントを勝ち上がり、決勝戦へと進む。相手は2度のKO負けをしている、因縁のベルナルドだった。結果は、アンディの2ラウンドKO勝ちで、リベンジを果たすとともに、悲願の初優勝を飾った。

 その後もアンディの躍進は続き、プロモーター兼選手として、母国スイスでの大会を成功させた。選手としては、3年連続でグランプリのファイナルに進出。名実ともにK-1の顔となり、トップファイターとして、前途洋々の人生を歩むはずだった。

ヒクソン・グレイシーの撮影直後に受けた「アンディ危篤」の報

 2000年8月、正道会館東京本部で緊急記者会見が開かれた。アンディが急性前骨髄球性白血病で危篤状態になっていることを知らせるためだった。テレビの速報でも「アンディ危篤」のテロップが流れたらしい。というのは、私はその日、ロスアンゼルスでヒクソン・グレイシーの撮影を終えて、成田空港に到着したばかり。携帯の電源を入れたら、妻からの電話があり、そのことを知らされた。今のようにスマホもなければ、インターネットも発達していなかったので、私は彼の病状を知る由もなかった。私はK-1のドクターから入院先を教えてもらい、空港から病院へ直行した。そして、その日にアンディは帰らぬ人となった。

 私とアンディとの付き合いは長い。K-1が発足する前年の1992年、石井館長が開催した、『格闘技オリンピックII』に、アンディが出場してからである。試合の翌日に、アンディを京都で撮影するので、東京からの道案内も兼ねて、彼と一緒に行ってほしいという依頼だった。私はグリーン車に乗ったのも、この時が初めてだった。移動中、アンディとは色々な話をした。忘れられないのは、前夜の対戦相手である、柳澤聡行を気づかっていたこと。「彼は病院へ運ばれたようだが、大丈夫なのだろうか?」と、何度も聞いてきた。彼の無事を知らされると、アンディは笑顔で、ホッとした表情を浮かべた。

【次ページ】 ランニングで他の選手に追い抜かれると…

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#アンディ・フグ

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