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「パラリンピックは通過点」東京の先に健常の大会を目指すパラ水泳・辻内彩野の目標設定に、松岡修造が驚愕! 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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photograph byYuki Suenaga

posted2021/08/24 17:00

「パラリンピックは通過点」東京の先に健常の大会を目指すパラ水泳・辻内彩野の目標設定に、松岡修造が驚愕!<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

辻内彩野選手は1996年生まれの25歳。目の病気の発症前、高校時代にはインターハイ出場の実績を持つ選手だった

松岡:日本選手権とか、そういう高いレベルの目標を一回諦めたんですね。

辻内:そうです。泳ぐことは嫌いになっていなかったし、おばあちゃんになっても泳げたらカッコイイなと思っていました。私の祖母も、私が水泳を始めたぐらいの頃に一緒にスイミングスクールに入って、シニアクラスで練習していたので、そういうおばあちゃんになれたらいいなって。それに3つ下の妹も現役スイマーですから、私は彼女をサポートして試合のビデオを撮ったりしていたんです。自分は本格的な競技の場から離れてしまったけど、自分の経験を生かして選手のサポートができるような道に進めないかなと考えていました。

水泳一家に生まれて

 辻内選手は水泳一家に生まれた。父・満夫さんはスイミングスクールの現役コーチ、母・信子さんは学生時代、インターハイや国体、日本選手権などに出場した元スイマーだ。妹も大学で水泳競技に励んでおり、幼い頃から暮らしの中に水泳が根づいていた。

松岡:ご両親も水泳をやっていらっしゃるんですよね。ということは、彩野さんはもっと早く水泳をやっていても良かったわけです。僕は相当早くて2歳ぐらいからやっていましたから。

辻内:私も小学校に上がる前から「水泳やりたい」と両親に言ってたんですけど、3つ下の妹がまだ小さかったし、両親が共働きで私をスイミングスクールに送り迎えする余裕がありませんでした。だから妹が保育園の年長さんになって手がかからなくなってから、ようやく始めることができたんです。それが小学3年生の夏でした。

松岡:水泳、やりたくてしょうがなかった?

辻内:保育園がお休みの日は、スイミングのコーチをしている父がたまに職場に連れて行ってくれて、小さいビニールプールで遊ばせてくれたり、家のお風呂の湯船でんぐり返しをしたり、妹と「息止め対決だ!」とか言って遊んだりして、それなりに楽しんでいましたよ。家の近くにある大きな公園の噴水で遊んだりもして。昔から水に入るのはすごく好きでしたね。

松岡:このインタビュー企画はパラアスリートに取材をしているんですけど、ここまではまだ全然パラではないですね。ここから変わってくるんですか?

辻内:そうですね、高校を卒業してから結構、劇的に。

松岡:劇的に!? ここからなんですね。

(構成:高樹ミナ)

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辻内彩野(つじうち・あやの)

1996年10月5日、東京都生まれ。小学3年で水泳を始める。大学1年のときに視力低下や視野異常を起こす進行性の難病「黄斑ジストロフィー」と診断され、2年のブランクを経て2017年にパラ水泳へ転向。直後のジャパンパラ大会では3種目で日本記録を更新し1位に。19年には世界選手権に出場し、女子100m平泳ぎで銅メダルを獲得。今年3月の日本選手権で50m自由形の派遣標準記録を突破し東京2020パラリンピック日本代表に選出された。現在、10種目で日本記録、うち3種目ではアジア記録を保持している。三菱商事所属。

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