酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
松坂大輔の“輝かしい全盛期と切ない故障禍の記録” 「投げまくって鍛える昭和の大投手」という一時代の終わり
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byHideki Sugiyama(2)/Naoya Sanuki
posted2021/07/11 06:00
横浜高校、西武、侍ジャパン。松坂大輔の剛腕は野球ファン全員の記憶に残っている
しかし松坂は2009年以来、13年間も「再起を期して」プレーしていたことになる。キャリア前半があまりにも華々しく、その後の低迷が長かったために、ピリオドが打てなくなってしまったのではないか。
投げ込んで力を発揮した「昭和の大投手」最後の系譜
筆者は「球数制限」について取材を続けているが、少なくとも21世紀以降は「甲子園優勝投手はプロでは大成しない」と言うのが定説になっている。
地方大会、甲子園と1人で投げぬいて何連投もした投手は、以後、故障やパフォーマンス低下などで、プロでは活躍できないケースが多かった。だから高校野球の「球数制限」が必要――ということになるのだが、松坂は1998年夏の甲子園のPL学園戦で延長17回を1人で投げぬくなど、圧倒的な球数を投げながら、翌年から3年連続で最多勝を挙げた。そして、そのままの勢いでMLBにまで駆け上がった。彼には「球数制限」は必要なかったようだ。
MLBに移籍してからは、ブルペンでの球数を制限され、ベンチ前のキャッチボールさえできない状況に適応するのに苦しんだ。NPBに復帰してからは、毎年のように春季キャンプで多くの球数を投げ込んだことが報じられたが、結局、完全復活はできなかった。
21世紀以降の甲子園優勝投手で、プロで大成した選手には田中将大もいるが、彼はMLBで投法を大きく変化させた。一方で松坂大輔は沢村栄治、金田正一、稲尾和久、米田哲也、江夏豊など球数を気にせずに投げまくった「昭和の大投手」の系譜の、最後の1人なのではないか。
「投げまくることで肩肘を鍛え、制球力をつける」
そんな教義が通用した最後の投手なのだと思う。
それでも、松坂の人気は絶大だった
NPBに復帰してからも松坂の人気は絶大だった。ソフトバンクでもメディアがついて回ったし、中日の春季キャンプでは背番号「99」の松坂のユニフォームが飛ぶように売れた。松坂はずっと特別だったのだ。