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死闘「アントニオ猪木対モハメド・アリ」から45年&ファン暴動で新日本プロレス無期限出禁も…「武道館と国技館の格闘技伝説」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byGetty Images
posted2021/06/22 17:02
45年前、1976年6月26日に武道館で行われた伝説の死闘「アントニオ猪木対モハメド・アリ」
その後も頻繁に使用されたかというと、そうでもなく「力道山十三回忌追善合同大試合」(1975/12/11)まで待たねばならない。70年代は「猪木対ウイリアム・ルスカ」(1976/2/6)「猪木対アリ」(1976/6/26)「猪木対上田馬之助」(1978/2/8)と主に新日本プロレスが使用し、東京スポーツ社主催「プロレス夢のオールスター戦」(1979/8/26)以降はジャパンプロレス主催「スペシャルウォーズIN武道館」(1985/6/21)まで6年もの空白がある。それ以降は、主に全日本プロレスのビッグマッチが行われ、現在まで多くのプロレス団体が使用している。
ちなみに、キックボクシングも日本武道館とは存外所縁が深い。初お目見えは日本キックボクシング協会(野口プロ)主催「東洋チャンピオンカーニバル・東洋7階級タイトルマッチ」(1969/6/28)でメインは沢村忠が真空飛び膝蹴りで、モンコントン・スイートクン相手にKO勝ちを飾った。競合団体の全日本キックボクシング協会も遅れること2年「全日本選手権決勝」(1971/11/5)と銘打ち各階級の全日本王座決定戦を行っている。
その後も、キックの武道館興行は時折開催されるが、特筆すべきは80年代後半~90年代前半の全日本キックボクシング連盟だろう。ロブ・カーマン、モーリス・スミス、ピーター・スミットなど、世界中のキックボクサーを招聘し武道館興行を行い、特に正道会館の空手家だった佐竹雅昭がドン・中矢・ニールセン(アメリカ)にKO勝ちを収めた試合は、その後のK‐1誕生のきっかけを作った(1990/6/30)。
書きながら思うことだが、つまるところ日本武道館という会場は、どのジャンルにおいても、転機をもたらす磁力を有しているのかもしれない。
なぜプロレス2団体は国技館を使えなかったか
続いて、東京五輪でボクシングの会場となっているのが、国技館である。日本相撲協会の管轄下にあり、こけら落としは言うまでもなく、大相撲となる(初場所・1985/1/13~27)。
その直後、大相撲以外で初めて開催された興行がプロレスだった。全日本プロレス主催「エキサイティング・ウォーズ」(1985/3/9)で、メインイベントは「ジャンボ鶴田&天龍源一郎対ザ・ロードウォリアーズ」。一方、新日本プロレスの初お目見えはその翌月で「アントニオ猪木対ブルーザー・ブロディ」(1985/4/18)が行われた。